「ミリス、アレクサンドリアびと、紀元三四〇年」は、恋人か、友人か、遊び仲間のミリスが死んで、その葬式に出掛けたときのことを書いている。キリスト教の家にははいらないと決心していたのだが、そんなことをいっていられない。出掛けてみると、親類の人が「私」のことを呆れ、不機嫌な目で見つめる。ミリスの死の原因が、その遊び仲間に原因があるからなのだろう。あるいは「私」が異教徒だからか。
そういうことを簡潔なことばで書き進めたあと、さらに簡潔に、「大広間に死体を安置。/この隅からちらりと見える。/高価な絨毯、/金銀の器。」と周辺の様子が描かれたあと、ことばの調子が変わる。ミリスはキリスト者であってギリシャの神を信じているわけではないという思い出が語られる。生きている間は、それでも同じ生き方が二人を結びつけていた。しかし、葬儀がはじまると……。
突然、不思議な感じが襲ってきた。
ぼんやりそんな気がしたのだ、
ミリスが離れてゆくと。
あいつはキリスト者。あいつの民と合体して
私とは無縁な人になって行く。赤の他人に、そういう感じだ。
いや待て。あるいは
もともと情熱にだまされただけか。
元来無縁の人だったか。
連中のおぞましい家からとびでた。
逃げろ。私のミリスの思い出まで
キリスト教につかまって くつがえされるかも。
ギリシャには複雑な歴史、激動の歴史があるのだと、あらためて気づかされる。宗教の対立、それは国家の対立でもあり、戦争の要因にもなっただろう。
愛は、あるいは肉欲はといえばいいのかもしれないが、そういう精神的な対立とは無縁のところで生きている。だから宗教に関係なく、ひとは「恋人」になるが、死んでしまえば「恋」よりも宗教の方が人間を支配してしまう。「恋」は本人の意思だけで動くが、宗教はときに個人を否定して団結する。
この詩では「ミリスの思い出まで/キリスト教につかまって くつがえされるかも」という形で、その「個人」と宗教のことが書かれているのだが、その「ミリスの思い出」ということばに、「私の」という強い限定があるところが、この詩の重要なところだ。
ミリスに対しては誰もがそれぞれ思い出を持っている。親類はもちろんミリスをキリスト者としておぼえている。ところが「私」は違うのだ。世間一般のキリスト者とは違う生き方をしているミリスのことをおぼえている。その「私だけの」ミリスの思い出を、キリスト教の葬儀から「私」は救いだす。
古代を題材にとりながら、カヴァフィスは、ここでも「現代」のことを書いているのだろう。複雑な国際環境のなかにあるギリシャに生きる理不尽を書いているのだろう。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
クリエーター情報なし | |
作品社 |