「一九〇九年、一〇年、一一年の日々」はカヴァフィスがその三年間交流のあった青年のことを書いているのだろう。水夫の息子で、鍛冶屋で働いている。シャツは擦り切れ、手も油で汚れているのだが、
ひそかに思う、果たして
古代のアレクサンドリアにさえ、
あんなに完璧に磨かれた自慢の子がいたか。
いつものように、どんな具合に「完璧」なのかは書かれていないのだが、カヴァフィスには理想の美だったのだろう。
この詩では、容貌のかわりに、二連目で、その青年の嗜好が書かれている。その部分が、魅力的だ。
店じまいのあと、夕闇迫るころ、
特にものほしとこころが動いた宵は--、
少し値の張るタイ、
日曜のためにとっておきのタイ、
あるいは飾り窓に見つけた
青いシャツの美しさに釘付けになったならば、
自分の身体を売った、銀貨一枚か二枚で。
おしゃれが好きだったのだ。ネクタイとシャツにこだわりをもっていた。鍛冶屋の仕事ではシャツも何も油と錆にまみれる。その体を洗って気に入ったシャツとネクタイで自分を飾る。そういうことが好きだった。それはもちろん誰かを引きつけるためにしたのだろうけれど、肉体の快楽よりも、着飾るよろこびが大きかったのだろう。
その一種の肉体の愉悦そのものではない、美への嗜好があったからこそカヴァフィスは「完璧に磨かれた」という修飾語で、その青年を語っているのだろう。
でも、
あの子は全くの名無し。彫刻も画も残さず、
貧しい鍛冶屋の店に埋もれ、
使われ過ぎてくたびれて、安く身体を売って
まもなく擦り切れてしまったけれど。
他人の肉の欲望のために、美が擦り切れてしまった。
けれど、カヴァフィスはおぼえている。カヴァフィスは彼を彫刻にはしなかった。絵にもしなかった。ことばに、詩にして、いま、ここに書き残している。彫刻や絵のように、視覚には訴えて来ないが、記憶にしっかりと訴えかけてくる。
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