「同年の友(素人画家)の描いた二十三歳の肖像」は誰の肖像だろう。カヴァフィスの肖像か。あるいはカヴァフィスの恋人の肖像か。カヴァフィスの恋人の肖像と読むと、とてもおもしろい。
グレイのジャケツのボタンを外し、
チョッキもネクタイもなしで、
バラ色のシャツを着せ、
胸をはだけさせて、
美しい頸と胸がかいまみられるようにし、
こういうスタイルが「男色」の、誰かを誘うときの合図だったのだろう。
ひたいの右側を髪で隠した。
美しい髪。
(この子が最近はじめた髪型だね)
描かれている青年は、仲間うちではすでに馴染みなのだ。だから細部の変化も、みんなに共有されている。きっと胸のはだけさせ方も共有された合図なのだろう。
その肖像の最後、唇を描くときの苦悩と悦びを、カヴァフィスは次のように書く。
ああ、あの子の口、くちびる、
特殊な性の快楽の渇きを今すぐにでも医してくれそうなくちびるよ。
ここに書かれているくちびるの描写はかわっている。具体的な「形」が示されていない。「特殊な性の快楽の……」では、「特殊な性の快楽」を知らないひとにはどんなくちびるか想像できない。
このことは裏返して言えば、カヴァフィスは、「男色」の詩を一般のひとに向けては書いていないということだろう。「男色家」全体にも向けては書いていないのかもしれない。「あの子」とわかる仲間うち、髪型の変化に気がつくかぎられた仲間うちに向けて書いている。
「わかる」と書いて、ふと思い出すのだが、「スパルタにて」のクレオメネスの母は「ラギデス家のような成り上がりには/スパルタ魂はわかるまい」と書いていた。わからない相手は相手にしない--それがカヴァフィスの「思想(肉体)」かもしれない。
クレオメネスの母のことばを、「男色家ではないひとには/私(カヴァフィス)の魂はわかるまい」と書き直せば、詩人のことばが「修飾語」をもたない理由も納得がいく。「修飾語(美の説明)」を共有しているかぎられた人間に向けてのみ、カヴァフィスは詩を書いた。「主観」をそのままさらけだした。
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