「スパルタにて」はスパルタの王(クレオホメネス)がマケドニアとの戦争時、エジプト王(プトレマイオス)に援助を求めたときのことを題材にしている。エジプト王は母と息子たちを人質として要求した。母親にどう言うべきか……。「屈辱だ、恥辱だ。/話そうとする度にためらった。/口火をきろうとするといつも抑制がかかった。」
だが、
気丈な母はわかっていた。
(すでに噂は聞いていたし)
言ってごらんとはげました。
打ち笑った。むろん行くわよ。
年を取ってもスパルタの役に立てる。
幸せだよ。
短いことば、簡潔な文体が、母親のこころの強さを語っているが、彼女の「気丈」は単にこころのあり方ではない。その奥には「論理的な精神」がある。「論理」によって、こころを支えている。
三連目。
屈辱だって? 全然--。
ラギデス家のような成り上がりに
スパルタ魂はわかるまい。
だからあいつの命令は屈辱にはならない。
私のような生まれながらの貴婦人、
スパルタ王の母后には--。
「わかる」という「動詞」がこの詩のキーポイントだ。
自分のことを「わからない」人間には何をされても、それは侮辱にはならない。侮辱の前提には「わかる」ということが必要なのだ。
「おまえにはわからなかった」にも同じような表現があった。ユリアノスに市民が誓願したとき、ユリアノスは「読んだ。わかった。却下した。」と応えた。それに対して市民が「読みはしたろうがわかっちゃおらぬ。」と反応している。
だいたい、相手のことが「わかる」とき、ひとはその相手に対して屈辱的なこと、侮辱的なことはしない。相手に対して非礼なことをする段階で、すでそのひとは「知的に劣っている」。
この強い自信を、母は息子のクレオメネスに植えつけようとしている。
クレオメネス王の長々とした「苦悩」と母親の簡潔な強い口調(声)との対比によって、そのことがいっそう鮮明になっている。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
ヤニス・リッツォス | |
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