中井久夫訳カヴァフィスを読む(135)  | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(135)        2014年08月04日(月曜日)

 「青年詩人、二十四歳」はカヴァフィスの二十四歳のときの記憶だろうか。

脳髄よ、今こそ力の限りを尽くして働けよ。
一方的な情熱であいつは壊れてゆくじゃないか。
気も狂う状況にいるじゃないか。

 「あいつ」と書かれているが、他人ではないだろう。自分を「あいつ」と客観的に見ようとしている。「客観」へとカヴァフィスを駆り立てているのが「脳髄」である。「頭」に対して呼びかけている。冷静に状況をみつめてみろ、と。

なるほど、日々、崇める顔にキスしているし、
手を絶妙な四肢の上に載せてはいる。
だが、これまでにない烈しい愛し方をしながら
こころよい満足がないじゃないか。
ふたりが同じ強さで求めあう時の
あの満ち足りた感じがかけているじゃないか。

 「満足」は「本人」にしかわからないものである。それを、わかって、そして批判している。これは「あいつ」が「あいつ」ではなくカヴァフィス自身であることの証拠である。「あの満ち足りた感じ」の「あの」は、本人にしかわからない「あの」体験である。
 さらに、ことばはつづく。

(ふたりは異常の愛への傾きが同じ強さじゃなくて
まったくの虜はあいつだけだ)

 カヴァフィスは相手が冷めかけているのに気づいている。それだけではなく、相手が冷めかけているのに、カヴァフィス自身は、まだその「愛」の虜になっている。「あいつだけ」と二人を明確に区別して、その「だけ」と激しく見つめたものに呼びかけている。
 この様子をカヴァフィスは、括弧のなかにことばをとじこめて、そのことばを芝居の「ト書き」か何かのように、つまり、それまでの「客観」よりももう一段上の「客観」で描写しようとしている。
 そうせざるを得ないほど、深刻な状況なのだ。カヴァフィスは愛に(肉欲に)溺れ、相手は知らん顔。どうしたら愛と官能を取り戻せるか。

あいつは疲れ、神経はずたずた。

 どんなことをしたって、もう回復はできない。だからこそ、カヴァフィスは最後にもう一度「脳髄よ、今こそ力の限りを尽くして働けよ。」と自分に向かって呼びかける。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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