中井久夫訳カヴァフィスを読む(133) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(132)        2014年08月01日(金曜日)

 「一九〇一年の日々」も男色の詩。二連構成の詩で、内容としては一連目を二連目で言いなおしている。あらゆる放蕩、広範な性体験のある男のことを書いている。普段は年相応に見えるのだが、

にもかかわらず こういう瞬間がある、
むろんごく稀だけど、つまりあいつの肉体が
ほとんど童貞って感じがすることだな。

 「肉体」が「童貞」に見える--それに対して違和感がある。童貞ではないのを知っているから。その違和感が「つまり」ということばに要約されている。何か言いたい。それを言い当てることばを探している感じが「つまり」。
 そして「童貞」というだけではうまく表現できていると思えないので、二連目でそれを言いなおしている。
 ほんとうは一連目と二連目のあいだに「つまり」があるのだが。その二連目。

あいつの二十九歳という年齢の美、
快楽に磨き抜かれた美、
ところがふしぎに時にはするんだなあ、
少年って気が、どこかぎこちなく、
からだをはじめて愛にゆだねるきよらかな子って気が。

 「童貞」の「意味」は「少年」。それだけでは言い足りない。「性体験がない」ではなくて、「からだをはじめて愛にゆだねる」ということ。力点は「はじめて」か「ゆだねる」か。「はじめて」だから「きよらかな」なのか、「ゆだねる」から「きよらか」なのか。なかなか見きわめるのがむずかしいが、「ゆだねる」からだろうと思う。
 「快楽に磨かれた」というくらいだから、快楽は知り尽くしている。それでも、自分から快楽をむさぼるのではなく、相手に任せている。ここにはカヴァフィスの「好み」が書かれているのかもしれない。ただ快楽を求めるのではなく、快楽に肉体を「ゆだねる」。むさぼるのではなく「ゆだねる」。そういう相手と出会ったとき、カヴァフィスは生まれ変わるのかもしれない。「童貞」に会ったとき、カヴァフィス自身が何度童貞を相手にしていようが、その相手にとってはカヴァフィスが「はじめて」、身を「ゆだねる」男なのである。そういう男に出会うとき、カヴァフィスもまた生まれ変わるのだろう。
 いやそうではなくて、「愛に」がカヴァフィスの求めているものかもしれない。「からだ」ではなく、まだ「からだ」の快楽を求めているという感じではなく、「愛」を求めている感じ。精神的な感じ。それが「少年」であり、それがカヴァフィスの探しているのもかもしれない。「愛」を求めるというのは、あまりにも抒情的か。
 「ところが……」の一行の不思議なことばの捩じれと、そのあとの倒置法の、あれもいいたい、これもいいたいということばの調子がおもしろい。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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