「古代このかたギリシャだ」という詩は、私にはどうにもわかりにくい。
アンチオキアの誇り、かがやく建築群、
美しい街路、郊外の 驚異の田園、
あふれる人口、また栄誉満てる王ら、
芸術家、賢者、慎重かつ大胆な豪商もまた誇り。
アンチオキアの「誇り」(自慢できるもの)を書き並べている。「美しい」「驚異」「あふれる」「栄誉満てる」ということばは、ことばそのもの(意味)はわかるが、そこからはどんな「具体的」なものも見えてこない。豪商に対する「慎重かつ大胆な」という形容詞には「矛盾」があって、何か刺戟的だが、それ以外は「ことば」に個性がない。
称賛すべき何かに対して個性的な修飾語を用いないというのは、カヴァフィスの「男色」の詩に特徴的な性質だが、それと同じ性質がここでも発揮されている。「男色家」なら「美しさ」に「個性」をつけくわえなくても「美しさ」がわかる、ということか。あるいは、男色の狭い(?)世界、互いが顔見知りの世界では「美しさ」を個性的に描かなくても、「あれは、あいつのことだ」とわかるということか。
もし、そうであるなら。
この詩で「美しさ」の「個性」が描かれないのは、その「美しさ」を、この詩を読むひとはみんな知っているからかもしれない。
そして、ここに書かれている「美しさ」が私にはどうにもわからないのは、私がアンチオキアを知らないからだ。私は、そこの住人ではないからだ、という単純な理由に落ち着く。
だが それよりもなお はるかに強い誇りは
アンチオキアが 古代このかたギリシャの都市だ、
イオをつうじて アルゴスにつながり、
アルゴスの植民者が イナコスの娘
イオを讃えて 造った市だということ。
あ、ギリシャ人ならすべてわかるのだ。「美しい」や「輝く」「驚異の」ということばで、それがどんな個性をもっているかがわかる。みんな、見たことがある。見ただけではなく、その歴史がわかる。誰が何をしたか。それが「いま/ここ」のこととしてわかる。説明する必要がない。
こういう不思議な詩を書くことで、カヴァフィスの「同族」の意識を噴出させている。こういう表現の奥に「同じ好み」の「血」が流れていることをはっきりと伝えるのだ。個性を排除した修飾語、詩にはふさわしくないような非個性的な形容詞は、「同じ好み/同じ血/同じ歴史」を生きる人間には、具体的に書かなくてもわかることなのだ。
これは「同性愛」ならぬ「同都市愛」の詩である。
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