「一八九六年の日々」はある男色の青年(?)の「堕落」を書いている。
その堕落は完璧だった。あいつの性的偏向は
御法度。断罪されても しかたのないものだった。
そして、彼といっしょにいるのを見られたら「具合が悪い」ということになって、世間から抹殺されたのだが……。
だがこれで話は終わりかい。 それじゃあんまりだろ。
あいつの美の思い出は ずっといい。
そうなれば話は別。そこから見れば
ひたむきな愛の子。ほんものさ。
その純粋な肉の官能、 理屈抜きの純粋の肉体感覚を
ためらうことなく 名誉名声よりも上に置いているあいつ。
この評価の部分がおもしろい。カヴァフィスはあいかわらず具体的な描写をしない。「あいつ」の美とは書いても、それがどんな美であるか、その「個性」を書かない。
「ひたむき」「ほんもの」「純粋」ということばが「あいつ」の「個性」というのでは、読者はどういう「あいつ」を思い浮かべていいのかわからない。
もしかすると男色には「個性」というものがないのかもしれない。あるいは「個性的すぎる」のかもしれない。自分の「ほんもの」「純粋」だけを信じているので、それを他のひとにわからせる必要がない。だから「ほんもの」「純粋」ですませられるのかもしれない。
こんなことでは詩は味気なくなるはずなのに、カヴァフィスの詩は味気なくない。ことばを読んでいて、おもしろい。「あいつ」の姿が見えてこないのに、なぜか、彼を「美男子」と思い込んでしまう。
そう思い込ませるのは何か。
語り手の口調。ことばのリズム。「口語」の感覚である。
この詩では「あいつ」はまったく動かないが(堕落した、ということはわかるが)、語り手は忙しい。「断罪されても しかたない」と批判したり「それじゃあんまりだろ」と反論したり。
特に「反論」の口調がいい。「あんまりだろ」という「口語」の響き。「ほんものさ。」というたった一語の肯定。ぷつんぷつんと断片的にことばが動いてきて、「純粋」「肉の官能」「肉体感覚」とことばを繰り返すことでスピードをつけ、肉体のよろこびを「名誉名声よりも上に置いている」という長い文章(長い修飾語)。「上」というのは具体的なようで、ここでは抽象的だ。長い文章で、突然抽象的になる変化のなかに、あ、話者はこれをいいたかったのかという感じが強くなる。
ことばの躍動を中井は訳出している。
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