「僧侶・信徒の大行列」について中井久夫は三六三年、ユリアノスが戦死し、キリスト教徒ヨノヴィアノスが跡を継いだと背景を説明している。ユリアノスの死後における十字架の凱旋を記述したテオドレオスの『教会史』に触発されて書いた詩か、とも。そういう「史実」よりも、この詩が「現在ギリシャの学校で教えられる「肯定的な詩」であると聞く」と書いているのがおもしろい。「ある」と言い切らずに、わざわざ「と聞く」と中井が書いたのはどうしてだろう。「肯定的な詩」という評価に疑問をもったからではないのか。--もっとまわった言い方になってしまったが、私も、「肯定的な詩」という評価(感じ)には疑問をもっている。
「肯定的」という感じとは違うものが、この詩にはある。私は中井の訳しか読んでいないので、断言はできないが、中井はこの詩を「肯定的」とは違うことばの調子で訳している。
十字架の行列を見たときの、異教徒の反応。
異教徒め、さきほどまで胸をはっていばりくさって、
どこへ行きおった? あ、うろたえて
こそこそ行列を避ける。逃げ去る。
この描写の「声」は、すこし自惚れている。ほんとうの勝者なら、こういう威張り方(視点の動き)はしないだろう。あるいはほんとうの戦士もこういう言い方はしないだろう。もっと「冷静」だ。「逃げ去る」は単純に「逃げる」だけではないかもしれない。反撃をするために「逃げる」という作戦もある。そういう配慮を欠いた「あからさまな声」を「肯定的」ととらえるのは、どうも腑に落ちない。
行かせよう。去るに任せよう。
(あやまちを捨てないうちはな)
これは「あやまち」を捨てて異教徒がキリスト教徒に帰依するまで待とうという自信たっぷりな「声」である。こういう「声」だけで詩が構成されているのなら、たしかに「肯定的な詩」と言われてもいいだろうが、「威張りくさって」という「口語の批判」、「うろたえて」という蔑視を「こそこそ」という「口語」で追い打ちをかけるような響きのなかには、何か「肯定的」と呼ぶのをためらわせるものがある。
あの聖ならざるユリアノスのアホウの支配がついに終わった。
この「アホウ」のつかい方も、街なかで、「口語」でしゅべっている分にはいいだろうが、「学校」で引き継ぐようなことばではないだろう。異教徒ユリアノスを批判するにしても、もっとほかのことばがありそうだ。ユリアノス批判は市民の間では常識だった(口語で語られていた)としても。
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