中井久夫訳カヴァフィスを読む(121) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(121)        

 「ロドスにおけるテュアナのアポロニオス」は「フィロストラトスの『生涯』より採った挿話」と中井久夫が注釈で書いている。「ロドスの青年は豪邸に金を注いで教養をおなざりにしている」と。

よい教育とは、教養とは何ぞやと、
アポロニオスは語った。
ロドス島に豪邸建築中の青年に。
「私が神殿に入るなら」と
このテュアナ人はとうとう言った。「たとえ小さくても
金と象牙の像の神殿を選ぶね。大きな神殿の
ありきたりの粘土像よりいいね」

 無教養をいさめている、成り金趣味の豪邸を批判しているのだろうけれど、私がこの詩でおもしろいと思うのは、その「意味」ではなく、

このテュアナ人はとうとう言った。

 この「とうとう」。長い間、言おう言おうとしていたのだろう。でもなかなか言えなかった。最後になって、ついに言う気になった。言えば嫌われるかもしれない。けれど言わずにいやな気分になるよりはいい。
 でも、その「とうとう」が相手の若者に伝わったか。「金の像」の「比喩」が伝わったか。そもそもなぜ「比喩」を持ち出して他人に語るのか。間接的に語るのか。もう、こころは離れかけていて、「直接」言う気持ちになれないのかもしれない。
 詩の後半、二連目。

「ありきたりの粘土像」ではいかにもげんなり。
だが(ちゃんとみがかれていない者は)
インチキに取り込まれるよ。ありきたりの粘土像になるよ。

 この三行はなんだろう。「教養のない人間は粘土像だ」という批判なのだが、アポロニオスが青年に語ったことばなのか。それとも、言わなかったけれど、こころのなかで思ったことばなのか。
 たぶん、ここまでは言わなかった。でも、言いたかった。
 そんなふうにして読んでみると、「教訓挿話」が突然男色の世界にかわる。
 カヴァフィスは史実を題材に詩を書くが、それは史実を書きたいからではなく、そのときに動くこころのありよう(ありさま)を書きたいのだろう。同じように、何かからの挿話を繰り返すときも、その「意味」ではなく、そのときのこころの動き(主観の変化)を描きたいのだろう。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社