中井久夫訳カヴァフィスを読む(119) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(119)
        
 「イタリアの岸で」は、「声にならない声」を書いている。「主観」が主観でありながら、いつものカヴァフィスの強い調子がない。

ギリシャ系イタリア青年キモス。メネドロスの子。
快楽にいのちを捧げつくすこころ。
南イタリアの植民市に住む青年はだいたい皆そう、
ぜいたく運にめぐまれた者ならば--。

 一連目は、男色を描いた文体とつながる簡潔さを持っている。「ぜいたく運にめぐまれた者」という強靱なことばの結合がカヴァフィスらしい。(中井久夫の文体が強靱でおもしろい。)
 ところが二連目から、すこし違う。

だが今日という今日はいつもと違う。
さすがのキモスもしおれて心ここにあらずのさま。
キモスは見る、船が岸壁で荷を降ろすのを。
ペロポネソスからの戦利品。
思いは千々に乱れて尽きず。

 「快楽にいのちを捧げつくすこころ」という剛直さが消えて、「しおれて心こころあらずのさま」。弱々しい。頼りない。
 そして、その弱く頼りない感じを、中井久夫は「さま」(様子)ということばで、あいまいに表現している。一連目では「こころ」がはっきり見えたのに、二連目では「こころ」が「さま」の奥に揺れている。「こころ」ではないものが、肉体の前に(表面に?/上層に?)漂っていて、そこから「こころ」が推測できるとき「……のさま」というのだと思う。
 そういう対比のあとで、

ギリシャから分捕る。コリントスよりの戦利品。

 これは「荷箱に大書されている文字」と中井久夫は注に書いているが、キモスの視線はいつものように男色の相手に注がれているのではない。船の荷物、その箱に書かれた文字に注がれている。そして、自分にはギリシャ人の血が流れていることを自覚して、単純に喜べないでいる。こころは男色の相手に向かって動くときのように欲望の剛直さを持っていない。あからさまではない--といいたいけれど、そのゆらぎは「あからさま」である。「……のさま」の、まさに、その「さま」が見えている。
 カヴァフィスは、ことばにされなかったこころの動きをも、こんなふうに的確に表現する。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社