「その生涯の二十五歳に」は、二十五歳のときの思い出だろうか。行きずりの男色の相手が忘れられずに、
彼は規則正しく宿に足を運んだ。
先月ふたりが会った宿だ。
だが たずねても詮ない
皆の口ぶり。感触からすると
全然顔の知られていない子らしい。
一行目の「規則正しく」がなんともおもしろい。「顔の知られていない子」から判断すると、若者は「規則正しく」やってくるわけではない。その不規則に出会うために、カヴァフィス自身は同じ時間に宿へ行く。「彼」と書かれているが、自己を第三者ふうに語っている。ふたりが勝手気ままな時間に行っていれば、出会う可能性はさらに小さくなる。ひとりが「規則正しく」そこいれば、他方が偶然来ても出会えるというわけか。
今にもはいってこないか。ひょっとして今夜こそ扉を排して--。
カヴァフィス自身は「ひょっとして」を排除して「規則正しく」そこにいる。「規則正しい」からこそ「ひょっとして」という思いが強くなる。
しかし、これが「三週間」もつづくと、気持ちは少し別な様相を見せる。
こうしちゃおれぬの思いはもちろん。
でも、どうにでもなれの気も時々。
冒す危険は承知の助で
あえて受けようと覚悟の彼。このまま行けば
まずは醜聞で破滅とわかっちゃいるが。
「規則正しく」その宿にあらわれれば、目撃される機会も多くなる。醜聞の危険はそれにつれて高まる。「どうにでもなれ」は自分が「どうなってもかまわない」という気分。「どうなってもかまわない」と覚悟して、相手についていくことを恋と言うが、カヴァフィスの場合、その相手はいなくて、気持ちだけが動いている。
この「どうにでもなれ」に、その次の行の「承知の助で」という口語が拍車をかける。そこには「規則正しく」というような「律儀」な理性はない。「規則正しく」ということばではじまっていたために、この「本音」の暴走がとてもいきいきと感じられる。最後の行の「わかっちゃいるが」という途中で終わることばもいい。途中で終わっても、ことばは「わかる」。伝わる。完成された文章よりも、この口語の中途で終わる形の方が「主観」が強く動く。動いているのを読者が追認する。読者が「やめられない」を自分で補うのだが、そのとき読者の気持ちはカヴァフィスの気持ちになる。
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