中井久夫訳カヴァフィスを読む(117) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(117)        2014年07月17日(木曜日)

 「色ガラスのこと」は中井久夫の注釈によれば、ビザンツの歴史家グレゴラスによって報じられていることを踏まえて書かれている。ヨアネス・カンタクゼノスと妃イリニの戴冠式のことである。

イリニはアンドロニコス・アサンの娘なのに
ふたりの宝石は数える程。
(衰亡の我が帝国はいたくまずしく)
ふたりは人工の石を身に着けた。かずかずの
ガラスの玉を。赤、青、緑--。
だが、私は知る、これらの色ガラスの玉に
卑しさはなく、安っぽさもおおよそなかった。
それどころか、王位に就くふたりの
理不尽な不運への
かなしく敢然たる抗議のごとくだった。

 「だが、私は知る、」以下がカヴァフィスの主観である。この「私」の主張は清潔だ。他者を気にしていない。ガラス玉を、卑しさはなく、安っぽさもないと否定する。そういう声があることを知っているから、まず否定する。他者の視線を蹴散らす。そして、「それどころか」と論理を逆の方向展開する。この論法の手順は、単刀直入なことばの動きを身上とするカヴァフィスには珍しい。論理を展開するにしても、論理の気配を感じさせないのがカヴァフィスなのに、ここでは論理が逆の方向へ動いていくことを「それどころか」でまず暗示する。
 言いたいことがたくさんある。たくさんあるから、論理の動きを予想させる必要があった。まず「理不尽な不運」というもの。次に

かなしく敢然たる抗議

 この「かなしく」と「敢然たる」ということばの結びつき--それをカヴァフィスは強調したい。「かなしく」と「敢然たる」は必ずしも「一致」する感情、概念ではない。ひとは悲しかったら敢然とはしない。思い切って何かをするのではなく、何もできないのが「かなしい」なのだから、ここは矛盾しているとさえ言える。
 しかし、こういう「流通言語」からみると「矛盾」としかいえないところに詩がある。詩は、もともと「流通言語」ではとらえられない何か、うまくことばにならない何かをことばにしたものである。
 この矛盾を、矛盾ではない、「真実である」と訴えるための助走が「それどころか」である。強調したいことがある。それを言うから注目してくれ、というのが「それどころか」という論理に含まれた「声」である。
 途中の「私」の主張、完全なる個人的見解の「私」が詩の基本だ。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社