「アンチオキアびとテメトス、紀元四〇〇年」は、中井久夫の注釈によれば「キリスト教文化と古代ギリシャ・ローマ文化の共存時代を終え、テオドシウス二世統治下のキリスト教時代にはいろうとする境界線上にある。」男色が困難になりつつある時代と言えるのだろうか。
テメトス若く 愛に酔い痴れ 詩を作る。
題は「エモニデス」。アンティオコス・エピファネスの寵童だね。
サモサタ出身の子。いかにも見目よかったと今に伝える。
いつもの簡潔な響きがない。一行が長く、なんとなく間延びしている。いつものカヴァフィスなら「見目よかった」とだけで完結することばが、ここでは「いかにも見目よかったと今に伝える。」と余分なことばがまとわりついている。「いかにも」は強調の副詞。これがあると逆に「見目よかった」とは言えなくなる。「いかにも」に力点が移る。「いかにも」がないと成立しない、貧弱な「見目」である。「今に伝える」はことばが重複している。「今に」はなくても、「伝える」という動詞が動くのは「今」しかない。ここでも、「見目」よりも「今」「伝える」という余分なことばの方に、詩の力点が移っている。「今」、この変化していく時代を意識している、その変化に何かを感じているカヴァフィスがいる。
時代の「たそがれ」を愛するカヴァフィス--そんなふうに中井久夫はとらえているが、たしかにそうなのだと思う。
だが、ただごとならぬこの詩の熱気。あふれんばかりの感情のかよい。
この行でも、「ただごとならぬ」とか「あふれんばかり」とか、詩にしては無防備な「強調」がある。こういうことばは、ことばの「意味」に反して、詩を「平凡」に、「貧弱(枯渇せんばかり)」にしてしまう。そういう不思議なことばの変化を知っているから、いつものカヴァフィスは、そういうことばをつかわない。
うるわしい愛のかたち、テメトスならではの愛。
ぼくらはその道の者。あいつとは割ない仲の友だよ。
われわれその道の者はこの詩の詩人をご存じ。
「うるわし」ということばがうるさい。「愛のかたち」の「かたち」もうるさい。どちらかひとつでいいだろう。「ならでは」も間延びがする。「その道」が繰り返されるのも、緩慢な感じだ。カヴァフィスは、ここではそういう「緩慢」な響きを楽しんでいるのかもしれない。
「割ない」は「ことわり(理)なのだと思うが、中井は「割」という文字をあてている。意味よりも「音」が動いている。口語を動かそうとしているのかもしれない。
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