中井久夫訳カヴァフィスを読む(113) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(113)        

 「ここへ読みにきたのだが」は、どこかからぬけだし、自分の好きな本を読みにきた青年のことを描いている。それは「現実」のことなのだろうけれど、私は、違う感じて読んでしまう。

この子はここへ本を読みに。ひろげたままの二、三冊。
歴史家の本、詩人の書。
だが十分も読んでたか。
ぬけだし、うたた寝、ソファの上で。

 「ぬけだし」はどこかからなのだが、その「どこか」が書いていないので、私はその若者が「本のなかから」ぬけだしてきたように読んでしまう。「メタ文学」になってしまうが、本のなかに描かれた青年が、カヴァフィスの前にいる。「文学(本)」のなかからぬけだしてきた、つまりことばでできている青年なので、それはカヴァフィスの理想をそのままあらわしている。一部の隙もなく、ことばそのものになっている。次のように。

二十三歳のこの若さ。見目もかたちもよいこの子。
この午後はエロスの神のお忍びさ。
この子のいうことなしの肉体とくちびると、
美しい身体を熱くしてるエロスの火。
よろこびの時とる体位を妙に恥じたりせずに。

 「見目もかたちもよい子」では、どんな具合に見目がいいのか、かたちがいいのかわからないが、そういうことは「本」のなかで語られ尽くされているから、わざわざ繰り返さない。カヴァフィスのことばは修飾語を持たずぶっきらぼうな感じ、裸の感じがするが、それはカヴァフィスが修飾語を知らないのではなく、そういうものに飽き飽きしているからだろう。ものの「表面」を飾ることばには、うんざりしている。
 では、何に視線を注いでいるのか。
 「美しい身体を熱くしている」の「熱くしている」という動き、「熱くなること」。「よろこびの時とる体位を妙に恥じたりせずに」の、エクスタシーのときにある体位に「なること」、「恥じたりしないこと」。そこに書かれている「こと」、「こと」という「動き」そのものをしっかりと見つめている。
 「若さ」、あるいは「見目よいかたち」というのは、彫像のように動かない美ではない。動く瞬間に見えてくる「こと」なのだ。

 この青年が本のなかからぬけだしたのではなく、現実の青年だとしても、その青年の美しさは「見目」(外観/見かけ)よりも、その青年の内部で動きものがあるからだ。「文学(教養/ことば)」が動き、青年をつくる。それをカヴァフィスは本を抱えたままうたた寝をした青年に見た、ということだろう。あるいは若いときの自画像かもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社