「シドンの劇場、紀元四〇〇年」の文体は非常に軽い。そして、ゆるんでいる。それがそのまま主人公の「こころの文体」とでもいう感じである。いや、文体とはもともと「ことば」だけのことではなく、「ことば」は意識の動きをあらわしているのだから、それがそのまま「こころ」のあり方を示していて当然なのだが。
おもしろいのは、中井久夫が、そういう「こころの文体」をしっかり「ことば」に移しかえていることである。
れっきとした市民の子。何よりもまず見目よい青年俳優。
何かにつけて人に好かれる私。
その私が時おりまさかという大胆なギリシャ詩を作って
回覧する--むろんごく内密に。
一行目には「私は」という主語が省略されている。日本語だから省略してもわかるのだけれど、この省略に「うぬぼれ」がまじっている。「私は」と書かなくたって「私」とわかるだろう、という美形の青年俳優の強さが輝いている。二行目の最後になって、やっと「私」が倒置法で登場する。
そのやっと出てきた「主役」を三行目で、もう一度「私が」と自己主張させてから動きだす。歌舞伎のみえのように、「私はここにいる」と強烈に「私」を印象づける。
こういう翻訳を読むと、中井久夫はほんとうに耳のいい人間で、どんなことばも「声」そのもの、「肉体」を持った人間の動きとして見ていることが(聞いていること)がわかる。
「大胆な詩」ではなく「大胆なギリシャ詩」という表現はカヴァフィスるのものだろうが、ここでわざわざ「ギリシャ」ということばを出すのは、後半への誘い水であり、カヴァフィスの自己弁護でもある。「私の書いているのはギリシャ詩である」と明言している。そして詩なのだから、公に読まれなくてもいい。必要なひとに、「内密に」読まれればいいとも付け加えている。
さらに、
神さま、私の詩が倫理などをぺらぺらしゃべくる灰色連の
目にふれませんように。ことごとく特殊な性の喜び、
実を結ばない、呪われた愛に至るよろこびの詩ですから。
と念をおすのだが、その途中に「倫理などをぺらぺらしゃべくる灰色連」ということばが出てくるところが非常におもしろい。この「連中」を中井久夫は「おそらくキリスト教と」と書いているが、そうなのだろう。私はそれがだれであるかということよりも、「ぺらぺらしゃべくる」ということばで、他人のことばを批判している点が興味深い。カヴァフィスの詩のことばは「ぺらぺらしゃべくる」というリズムではない。青年俳優に軽い調子で語らせながら「ぺらぺら」を批判しているのがとてもおもしろい。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
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