「ユリアノス 侮蔑をみぬいて……」は、私にはよくわからない。
「では神々をないがしろにするやからが
我々の間にもいるのじゃな」--あいつはあいつなりの荘重さで言った。
書き出しの二行だが、三人の人間が出てくる。「やから」「われわれ」「あいつ」。この三人は、だれなのか。どういう関係にあるのか。
AがBを「やから」と呼び、「我々」の中から排除しようとしている。「やから」と呼ばれたBがAを「あいつ」と呼び、批判している。つまり、ここには呼称から判断すると三人いるように見えるが二人しかいない。「やから」と「あいつ」がぶつかりあって、「我々」になっている。そして、互いに侮蔑するとき、世界は完結する。
なぜか、私は、ここで「完結」ということばを思いついた。
侮蔑する二者が、侮蔑するときのみ互いに「個」を確認し、自分の「個」を主流にし、他方を排除しようとする。その運動は二種類あるように見えるが、ひとつなのだ。「混沌」という形の「ひとつ」の「完結した」世界。そこには「侮蔑する」という「動詞」以外は存在しない。
そして、その「侮蔑する」という動詞は様々に変形しながら、だんだん接近していく。相手を理解しはじめる。
新興宗教を好き勝手にお作りになればいい。
いくらガラテイアの高僧に手紙を送っても、
あの手合いをそそのかし、あおりたてなすってもいい。
この「……すればいい」の「いい」は肯定ではない。そんなことをしたって、関係ない、と言っている。
それは、相手がそうするのがわかっているから、そういうのである。それに対する自分の(あるいは世間の)対応も、わかっている。「あいつ」の自由にはならない。そういうこともわかっていて言う「いい」である。
どこかで、「あいつ」の限界を知っている。その「限界」のなかで、二人は出会っている。
結局奴等はヘレネス。のりは越えぬ。アウグストゥ、そうだろ。
「のりを越えぬ」は「古代ギリシャ人が自己の特性を表すためによく使った句」と中井久夫は注釈している。互いにギリシャ人であることを熟知し、その知っているがゆえに、何もかも見抜いてしまう。
侮蔑も、ということなのかもしれない。
それはユリアノスだけではない。
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