中井久夫訳カヴァフィスを読む(105) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(105)        2014年07月05日(土曜日)

 「アンティオコス・エピファネスにささぐ」も古代の戦争とカヴァフィスの生きた時代のギリシャ・トルコ戦争が重ね合わせる形で書かれている。「当時のギリシャ本国では敗戦将校の自決があいつぎ、報復を叫ぶ声があった。詩人はこれに対して分別を説くごとくである。」と中井久夫は注釈で書いている。
 歴史は、繰り返す--その繰り返しのなかで見るものは、どういうわけだろう、いつも「悲しみ」である。「喜び」が繰り返すとはいわないのは、喜びはそのときそのときてたまったく新しいものだからだろうか。そして、その繰り返さないはずの「喜び」が、なぜ、自分にだけは実現するとひとは思うのだろうか。

若きアンティオキアびと、拝謁して申すよう、
「陛下、またとない希望に胸の高鳴りを抑えられませぬ。
マケドニア軍が、アンティオコス・エピファネス王陛下、
あのマケドニア軍が、この大合戦に打って出てまいりました。
あの諸君に勝ってもらわねば。勝てば望みのものをとらせましょう。
ライオンなりと馬なりとサンゴ作りのパーン像なりと、
ええい、優雅な邸宅もテュロの庭園も、
陛下に賜ったものならなんでも差し出す所存でございます」

 これは、あなただけに与えられる「喜び」--そう言われると、ひとがそう思ってしまうのはなぜだろう。「喜び」が「敗北」(悲しみ)と違って繰り返さないために、ひとはその「本質」を知ることができないためだろうか。

 この詩では、報償に目が眩むのではなく、父と兄の運命(敗北)を思い出して、王は動かなかったという形でことばは閉じられているが、そういうストーリーよりも、この詩では王に誘いかける「声」がおもしろい。
 ひとを煽ることばには、不思議な音楽がある。

マケドニア軍が、アンティオコス・エピファネス王陛下、
あのマケドニア軍が、

 この「マケドニア軍が」という繰り返し、しかも、繰り返すとき「あの」という指示詞のつくリズム。「あの」が記憶をひっぱりだし、「マケドニア軍」をいきいきとさせる。「あの」が何か書かれていないが、それはみんなが熟知のことだからだ。「みんな」の感覚を動員して、そのことばの「意味」を強める。そこに、不思議な音楽がある。
 「ええい」という乱暴な口語もいいなあ。自分を投げ捨てて協力する--そういう「嘘」がことばにはずみをつける。ただ王を戦争にひっぱりだしたいだけなのだが、「ええい」には自己犠牲の響きがあるので、王をその気にさせる。
 詩は、詩のストーリーよりも、こういう細部の音(声の調子)にある。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社