「名哲学者の学校出」はカヴァフィスの「自画像」だろうか。
奴はアンモニオス・サッカスのところで二年学んだ。
しかし哲学にもサッカスにも飽きた。
そこで政治にはいった。
しかし政治はやめた。知事どのは白痴。
取り巻きは勿体ぶっておせっかい焼きのあほう。
やつらのギリシャ語ときたら--馬鹿めが--蛮人ふうだ。
サッカスは古代のひとだからカヴァフィス自身が彼のところで学んだということはありえないが、「奴」にカヴァフィスが託されている。哲学を学んで、政治に入って、しかし、そこでもうんざりしている。政治家の「知性」がカヴァフィスには耐えられない。政治の「世間」を渡り歩く「智恵」が気に食わない。特にその「ギリシャ語」が許せない。
カヴァフィスは何よりも「ギリシャ語」を生きている。詩人なのだ。
でも、ギリシャ語(国語、ことば)とは何だろう。何のために、どうつかうのか。
はっきりしないまま、詩は、突然転調する。
ぼんやりしてちゃあてんで、
アレクサンドリアの曖昧宿の常連になった。
淫猥な秘密の巣を歴訪した。
ここじゃ奴はツイていた。
いい顔かたちに恵まれて、
この神の賜物をたっぷり利用した。
あれあれ、なにやら、ことばではなく肉体と肉欲の世界に溺れてしまっている。哲学も、政治も、ギリシャ語も関係がない--ようにみえるが、カヴァフィスにはそうではないのだろう。ことばは、結局「肉体」そのものなのだ。ある肉体にひかれるように、人はある「ことば」にひかれる。「ことば」にも「肉体」があって、それが「ことば」を欲望させ、そこからことばが自律的に生きはじめる。
哲学のことば、政治のことば(おべんちゃらのことば)ではなく、詩のことば、芸術のことばである。
「感覚と欲望を「芸術」に加えたのはこの私だ。」は「私は芸術にもたらした……」の一行だが、カヴァフィスは「ことば(ギリシャ語)」に彼自身の感覚(の好み)と欲望を注ぎ込み、「ことば」を詩(芸術)にまで高めた。そして、その昇華には、彼自身の「淫猥な」肉欲の体験が不可欠だったというのである。
さらにこの詩の後半には別のことが語られているが、それは中井久夫の注が親切だ。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
ヤニス・リッツォス | |
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