池井昌樹『冠雪富士』(9) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『冠雪富士』(9)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「この道は」は短い詩なので全行引用する。

あめのこと
あめこんこんとよんでいた
とおいむかしのにおいがする
みちばたにくさばなゆれて
あめこんこんかすかにゆれて
わたしはわたしのなくなるような
わたしがわたしでなくなるような
かすかなかすかなおもいのなかを
あめこんこん
あめこんこん
いつかだれかのあるいたみちを

 同じことばが繰り返されている。ただし、逆に最後の行は「いつかだれかのあるいたみちを」はことばが足りない。「歩いている」が省略されているのだろうか。たぶん、そうだろう。(二行目が「よんでいた」だから、最終行も「歩いていた」と過去形かもしれないが。)
 そして、この同じことば、同じようなことばの繰り返しのなかに、微妙な違いもある。

わたしはわたしのなくなるような
わたしがわたしでなくなるような

 似ているが、とても違う。「わたしのなくなるような」では「わたし」が消えてしまう。「わたし」が存在しなくなる。「わたしでなくなるような」は「わたし」が「わたしでなくな」り、わたしではない「だれか」になる、ということかもしれない。「わたし」は「だれか」になって存在している。
 そして、この「わたしではないだれか」という人間が、最終行の「だれか」ということになる。「わたし」は「だれか」になって、「だれか」の歩いた道を、歩いている。そのとき「わたし」は、その世界からはじき出されて「だれか」が「ひとり」になっているのか。「わたし」は「だれか」に統合されて「ひとり」になっているのか。厳密に考えずに「ひとり」になっている、とだけ感じればいいのかもしれない。

わたしはわたしのなくなるような
わたしがわたしでなくなるような

 では、「わたし」は「無(0人)」になるか、「ふたり」になってしまうが、最終行では「ひとり」になっている。「だれか」と「一緒」なのだけれど、「一緒」であることによって「ひとり」になっている。
 で、その「ひとり」が「歩いている(歩いていた)」。
 これでいいのかな?
 いいのかもしれない。
 けれど、何かがひっかかる。

 「歩いている」は省略されている。ここにひっかかる。ほんとうに「歩いている」が省略されているのか。もしかしたら違うのではないだろうか。歩いていないのではないだろうか。
 じゃあ、どうしている?
 私は、「みち」になっている、と感じた。瞬間的に思った。
 「わたしのなくなる」(わたしはなくなる)、「わたしでなくなる」はほかの「だれか」になるということではないのかもしれない。「だれか」を通り越して、その「場」になる。その「場」には「みち」がある。そして、雨が降っている。「あめこんこん」と声がする。そこには草花が揺れている。

 いつかだれかのあるいた「みち」になるような、その道になって、「あめこんこん」という声を出しているひとを歩かせている。
 池井は「みち」と一体になっている。そこには「あめこんこん」というひとがいて、「わたし」はいない。「あめこんこん」という「声」そのものが「わたし」であって、人間の形を超えて、「そこ」という「場」と「時」の全体をつくっている。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社