中井久夫訳カヴァフィスを読む(96) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(96)          

 「亡命ビザンチン貴族の詩作」は、不思議な音楽に満ちている。亡命した貴族が詩をつくる。その詩は、簡単に言うとつまらない。それが証拠に「亡命ビザンチン貴族」という「肩書」はあっても、個人の名前がない。詩も、その個人の名前も残っていないのだ。
 カヴァフィスはここでは何を書こうとしているのか。詩人は少ない。詩を作る人は多くても、詩人はいない。そういう事実だ。そして、では、どんな詩がつまらないかというと、次のような感じ。

粗忽者じゃな、我輩を粗忽と罵る輩は。
重大事項はすべてきわめて真剣に処理していたぞ。
教父、聖典、公会議の決議に
わしほど通じていたものがあろうか。

 「教父、聖典、公会議の決議に」通じている。だから、自分は、それなりに重大な人物であり、粗忽者ではない--こういう奇妙な「うぬぼれ」の書く詩はつまらない。だいたい詩とは、「粗忽」とは無関係。ミスとは無関係。粗忽であっても、そこに強い感情が動いていれば、それは詩だ。また、その詩は自分のことをほめあげるだけで、他人を語らないのもつまらない。つまり、他人を発見しない。他人を描けない。他人のように強烈な、自分のなかにある感情(主観)があふれないと、そのことばは詩にならない。
 --と、書いてくると。あれ?
 この詩は亡命ビザンチン貴族の書いたことばのはずなのに、いつのまにかカヴァフィスの詩人全般への批判、カヴァフィス詩の自己主張になっているのだが……。
 おもしろいのは、カヴァフィスはつまらない詩人を批判するときに、単になぜ詰まらないかを書くだけでは終わっていないことだ。カヴァフィスは、そのつまらない詩人の「口調(ことばのリズム)」を再現してみせる。つまらない詩人になりきって、つまらない詩人の声を「主観」としてことばにしてしまう。
 「教父、聖典、公会議の決議に/わしほど通じていたものがあろうか。」と主張するつまらない詩人は、きっと「詩にわしほど通じていたものがあろうか。」と平然と言うに違いない。
 で、その詩の後半は、まさにそんな感じ。

言わせてもらうが、ここまでやれる者はいまい、
コンスタンティノスポリスの学者諸氏でな。
私の詩の厳しい作法が勘に障って
奴等がおれの詩を駄目というのじゃ。

 カヴァフィスはほんとうに耳のいい詩人だ。つまらない詩人は「作法(論理/意味)」を書くが、そのことばが出てくるときの「作法」さえもつまらない詩人の「主観(声)」としてつかみだし、嘲笑している。そういうことができる詩人だ。



中井久夫の訳詩『リッツォス詩選集』が発行されます。
20年ぶりの訳詩の出版です。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社