「ダレイオス大王」は、フェルナゼスという詩人が「叙事詩のさわり」の部分を考える。「ヒュスタスペスの子ダレイオスが/ペルシャの王位を奪うところ。」を書こうとしている。
だがここは難所。考えあぐねる。フェルナゼスたるもの、
ダレイオスがどう感じたか、ひとつ分析せにゃ。
驕りだ、まずな、それから陶酔かな?
いや、むしろ、偉くなる虚しさの直観だ、一種の、だな。
これはフェルナゼスを利用してカヴァフィス自身の試作方法を明らかにしているとも言える。「詩人」の「詩作中の声」を、カヴァフィスはフェルナゼスと共有している。「驕り」「陶酔」「虚しさの直観」と、まったく別種のことがぶつかり合い、共存している。感覚(感情)統一よりも、衝突によって人間をいきいきと動かそうとしている。
「抒情詩」なら「感情の統一」が必要だが、「叙事詩」では事件の鮮明さが必要だ。劇的な事件というのは「感情の統一」とは違うところで生まれる。
ようやく方針(?)が決まったのだが、そこに突然ローマとの戦争の知らせが飛びこんできて、詩作は中断する。
詩人は茫然。何たる災難!
わがミトリダテス・ディオニュソス・エウパトル陛下も、
よもやギリシャ詩など、かまっちゃくださるまい。
戦争の最中にギリシャ詩なんて。そりゃあそうだなあ!
先に引用した部分の「せにゃ」「だな」というような口語と同じように、フェルナゼス自身のこころのなかの声は口語のままである。ていねいなことばというのは相手がいるからていねいなので、自問自答は口語の早さ、口語の簡便さで動く。「そりゃあそうだなあ!」には、戦争のことを知らない(?)詩人ののんびりさ加減が紛れ込んでいて、とてもおもしろい。中井久夫の訳ならでは、という感じがする。
しかし、詩人の神経が尖るさなかにも、大騒ぎの最中にも、
詩想は押し寄せ、去来する。
驕りと陶酔--これだ、一番確かなのは。
驕りと陶酔をダレイオスは感じたに相違ないな。
この最後の連は、詩人の本質を語っている。つまり、フェルナデスであるかカヴァフィスであるかは関係なく、「詩人」そのものが動いている。どんなときにも「詩想」がやってきたら、それを一番先に感じてしまう。ほかのことを忘れてしまう。
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