中井久夫訳カヴァフィスを読む(93) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(93)          2014年06月23日(月曜日)

 「亡霊たちを招く」について、中井久夫は注釈している。

カヴァフィスはロウソク一本をともして部屋に友人を迎えた。過去の愛の亡霊にもその礼を尽くすというわけである。

 だが、逆に読んでみるとどうだろうか。過去の愛の亡霊に礼を尽くすときと同じように、新しい友人を迎え入れるときにロウソクを一本だけ灯した。それは愛の亡霊のために灯すロウソクではなく、友人のだれかを「愛人」として迎えるために灯すのだ。

ロウソクは一本でいい。今宵の部屋は
あまり明るくてはいけない。深い夢の心地、
すべてを受け入れる気持、淡い光--、
この深い夢うつつの中で私はまぼろしを作る、
亡霊たちを招くために--愛の亡霊を。

 過去をいまに現前させるのではなく、いまを過去と同じものにするためにロウソクがいる。カヴァフィスは、詩の中では、過去をいまに現前させる。だからといって、ことば以外の世界、現実の世界でも同じことをするとはかぎらないだろう。
 むしろ、ことばでできることはことばですればいい。ことばでできないことをしようとしていると考えてもいいのではないだろうか。
 不快夢うつつの中で、私(カヴァフィス)は「まぼろし」ではなく、現実の愛人を理想の愛人に作り替える。理想の愛をつくる。そのためには、明るすぎてはいけない、ロウソク一本の灯がちょうどいいと判断している。
 「深い夢の心地、/すべてを受け入れる気持」は相手のことか、それともカヴァフィス自身のことか。きっと区別はない。愛は一方が他方に対しておこなうことではなく、互いにおこなうことだから、「気持」がどちらのものを書いてあるか限定してもはじまらない。限定されないまま、溶け合ってしまう。
 だいたいカヴァフィスが「亡霊」というものを「つくる」ときロウソクなど必要としないだろう。カヴァフィスはロマンチストというよりも、冷徹なところがある。現実主義的なところがある。「もの」を描写するさいに形容詞を省くところなどに、その特徴がある。
 カヴァフィスには「ことば」がある。ことばさえあれは、どんな亡霊もつくれる。どんな過去の人物も、すぐにいきいきと呼び出すことができる。そういうことは何度でもしている。ことばを持たない若い男、そのこころを「愛」でいっぱいにするには、ことばよりもロウソクの淡い灯が必要なのだ。自分のためではなく、相手のためにロウソクを一本にする。そうしてこそ、新しい若い男は「愛の亡霊」の領域に達することができる。
 そういう準備をしている--そう読むことはできないか。