中井久夫訳カヴァフィスを読む(80) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(80)  
        
 「その港にて」はカヴァフィスの「声」の音域の広さを物語る。シリアで香料貿易の勉強をするはずだった若い男が航海中に病気になり、上陸したとたんに死んでしまった。その男のことを短編小説ふうに書いている。

いまわの際につぶやいた。
何でも「故郷」「年取ったふた親」とか。
だが誰も親の名を知らなかった。
どこを故郷と言ったのかも聞けなかった。
ギリシャ世界は途方もなく広い。
いや、これで良いのかも。こうだからこそ、
この港町に眠る彼を
まだ生きているはずと両親が希望を持ち続けられるわけ。

 若い男の不運に同情しながらも「これで良いのかも」と別な視点から考え直す。そこに不思議なあたたかさがある。もし、彼の故郷と両親がわかれば、誰かが青年の死を知らせる。そうすると、不幸は青年だけに終わらず、両親の悲しみにもなる。両親を悲しませずにすむから、これはこれでいいのだ。
 これはしかし、絶対的な「良いこと」ではない。だから、ことばの調子もどこか自分自身に言い聞かせるような静かな響きだ。いつものカヴァフィする「主観」の強さがない。最後の「わけ」という弱音の響きがとても切ない。「続ける」と断言してしまうと、ことばが強すぎる。
 しかし、ことばは不思議だ。「わけ」は理由の補強というか、念押し、という印象を引き起こすことが多い。「こういうわけだから、こうしなさい」と言われたとき、それに反論するには別の「わけ(理由)」を探さないといけない。けれども、この詩のように、その「わけ」が自分が(自分たちが)納得するためのものの場合は、逆に「強引さ」が消える。

何でも「故郷」「年取ったふた親」とか。

 というあいまいな「伝承」の感じ、あいまいだけれど多くの人のこころに残ったということと、自分たちを納得させる静かな調子が響き合うのも気持ちがよくて、それが短編小説という印象を強めるのだろう。

 それにしても、この詩は不思議だ。前半の省略の多い文体はたしかにカヴァフィスのものだが、後半の静かな音は、カヴァフィスの魔法のようなことばの強さからはるかに遠い。「論理(理由)」は「主観」よりは弱い--というのはとてもカヴァフィスらしいとも思うが……。