中井久夫訳カヴァフィスを読む(78) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(78)          

 カヴァフィスの詩には歴史に詳しくないとわからないものが多い。「アレクサンドリアからの使節」もそのひとつ。中井久夫は注釈で「プトレマイオス『愛母王』とプトレマイオス七世『善行王』との王位争い」を描いたものであると簡単に説明しているが、歴史に疎い私には、何のことかよくわからない。
 けれども詩の「口調」から、史実とは違った何かがわかる。

こんな素敵な供え物はなかったな、そう、何世紀も、
プトレマイオス家の二兄弟、このライバルの二王ほどのは。
頂戴はしたが司祭らはびくびく、
どう予言する? 微妙妙のきわみ、
生涯の経験全てを総動員して、さあ、どう表現するか、
二人のどちら、こういう兄弟ならどっちを斥けるべきか、
司祭らは深夜ひそかに頭を集めて
ラギデス家の家庭問題を討議。

 どちらを王に相応しくないと「予言」すべきなのか(斥けるべきか)、悩む司祭たち。「予言」はそのまま実行・実現されるだけではなく、どうしたって生身の反動をともなう。王に相応しくないと言われた方の男が力づくで司祭を殺害し、予言を変えてしまうということだってあるだろう。権力争いにけりをつけるはずが、権力争いの渦中にまきこまれる。斥ける(亡き者にする)は、そのまま司祭に跳ね返る。
 そのときの司祭の不安の「声」が、司祭の「主観」があざやかに描かれている。王位争いという「歴史」の舞台裏の、司祭の姿が、「歴史」を卑近なもの、庶民に近いものに変える。王位争いは庶民には縁がないが、王次第でどんな政治がおこなわれ、その結果どんな苦労をしなければならないかは庶民の問題である。そういう不安があるから、庶民は王位争いを注目する。
 さて、そのときの司祭たち。「深夜ひそかに頭を集めて」という描写がおもしろい。実際に頭をつきあわせている司祭たちの姿が見える。頭をつきあわせるのは、ひそひそ声で会話しているからだ。ほかの人間には聞かれないよう、小さな場所にあつまり、さらに小さくなって会話している。
 そして、その会話の内容といえば、「王位争い」と言えば聞こえはいいが、なに、たかが「家庭問題」である。兄弟のだれが王になるかというのは、司祭にも庶民にも関係がない「王家」の「家庭問題」である。
 この「家庭問題」はいうことばが、とてつもなくなまなましい。「家庭問題」なら、だれでも知っている。体験している。うんざりしている。こういうことばが、「歴史」をぐいと「いま」に引き寄せる。
 この詩も「ネロの生命線」のように短編小説ふうの「オチ」がついている。
 司祭たちの不安は、「オチ」によって一気に解決されるのだが、この急展開のことばはこびも、「歴史」を身近に引き寄せる力になっている。