中井久夫訳カヴァフィスを読む(76) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(76)          

 「認識」は一筋縄ではつかみきれない。

私の若かった日々。官能の生活。
今 その意味がわかる。明確に。

はかない後悔は無用であった。

もっとも、当時は意味が見えなかった。

 官能におぼれた若い日々。後悔などしなかった。その意味が、いまはわかる。そのときはわからなかった(見えなかった)意味が。--でも、その「意味」とは? これだけでは、わからない。若かったときに、詩人が官能におぼれたということしかわからない。

わが若い日の放埒な生活だった、
詩作の衝動が生じたのも、
わが芸術の輪郭が描かれたのも、
後悔がその場限りだったのも、
「止めよう、生き方を変えよう」という決意が
せいぜい二週間のいのちだったのも、
そのためだった--。

 詩作(芸術)を生み出すために、カヴァフィスの「官能の日々(放埒な日々)」があった、詩人は開き直っているのか。そうかもしれないが、その開き直りのなかに、

「止めよう、生き方を変えよう」という決意が
せいぜい二週間のいのちだったのも、

 という「後悔」が書き込まれているところがおもしろい。「後悔」さえも、いや「後悔」があるからこそ、官能が複雑に揺れ動く。「後悔」がなく、官能におぼれているだけなら、その官能は人を引きつけないかもしれない。芸術にならないかもしれない。
 官能の絶対的な消尽は、人を拒絶する。官能はあくまでも個人的なものであり、他人には共有されない。肉体的でありすぎる。
 けれど「後悔」は肉体を離れた「意味」であり、他人によって共有される。
 それにしても、その「後悔」を「せいぜい二週間のいのち」と「肉体」につながる「いのち」ということばで動かしてみせる強さはどうだろう。「二週間とつづかなかった」では「意味」に終わってしまう。「いのち」ということばが、「後悔」を「意味(精神)」であると同時に「肉体」に変え、それが「官能」ということばを輝かせる。