「ラニスの墓」は愛し合った二人のうちの一人の墓。二人とも美男子だった。一人はマルコス、もう一人がラニス。詩人はマルコスに、ラニスはこの墓にはいない。「きみの家のきみの部屋にいる。」そこにある肖像画に、いる、と言う。「あの子のいいところを留めるあの肖像に。」と。
覚えているだろ、マルコス、副王の宮殿から
キュレネ地方の有名画家を連れて来ただろ。
きみたち二人を口説いた折りの、芸術家ならではの老獪さ。
きみの友人を見た刹那、
画家は絶対にヒアキュントスに仕立てたくなった。
(実現してりゃあの子の画はもっと人に知られてる)
だがきみのラニスはおのれの美を貸し出さなかったな。
断然言ったな、ヒアキュントスとか何とかでなく、
描いてくださるならこの私、アレクサンドリアびと、
ラメティコスの子、ラニスでなくちゃ、と。
中井久夫は「神話の美少年に描かれるのを拒んだのは、キリスト教徒だからでもある。」と書いているが、宗教を持ち込まずに、単純に一人の少年の美貌に対する自負と取った方がおもしろいと思う。高慢さ、と言い換えてもいい。他人の「おだて」を拒む絶対的な美の自信--そういうところこそ「あの子のいいところ」だろう。他人がどういうかではなく、自分自身を基準にする。そのときの「主観」の強さ。「主観」が輝くとき、その人は美しくなる。
カヴァフィスは常に「主観」を描いている。そこに「宗教」を持ち出すと、個人的な「主観」が少し薄くなる。
この詩は、その「主観」に寄り添うように書きはじめられている。引用が前後してしまうが、最初の三行は、次のようになっている。
マルコスよ、きみの愛したラニスはな、
この墓の中にいるわけじゃないぞ、
きみが泣きにきては何時間もあたりを彷徨う墓には--。
一行目、二行目の行末の「な」「ぞ」はなくても意味は同じ。けれど、あるとないとではニュアンスが違う。三行目が全体の倒置法になっているのも、文の意味としては同じだが、倒置法であるかないかというのもニュアンスの問題だ。ニュアンスは「主観」だ。マルコスに語りかけている詩人の主観は、詩人がマルコスとラニスの愛の形、そして二人の主観と親密であったことを語る。ふたりの主観に第三者の主観が寄り添うことで、先の主観が共有されて、生きて動くことがわかる。