「カイサリオン」はふたつの「声」で書かれている。前半は「私(カヴァフィス)」が主語。プトレマイオス家についての文書を読んだ。「湯水のような賛辞にお世辞。/誰についても同じ字句。」が並んでいる。それに退屈したときの「声」が書かれている。
そしてそのあと、本をしまおうとしたとき「カイサリオンの小記事」が目に止まる。
きみの魅惑は不確定性にある。
歴史からわかるのは
ごく僅かな事実だけだから、
私のこころできみを自由に造形できた。
きみを美貌で敏感な人にした。
きみの顔に心打つ夢が美を与えた。
それが私の技だ。
さて、これをどう読むべきか。「小記事」の内容を要約(転写)しているのか。それとも、その記事を読んだ後のカヴァフィスのこころを書いているのか。「私のこころできみを自由に造形できた。」は、「ごく僅かな事実」をもとに、カヴァフィスが「きみ(カリサリオン)」を自由に造形しなおした、と読むのがいちばん理に適っていると思うが、この二連目に書かれている「私」がカリサリオンであると思って読むのもおもしろいかもしれない。
カリサリオンは王であると同時に詩人だったと想定する方がもおもしろいと思う。彼は誰かを自分の理想の男にした。
私の想像は完璧になって、
昨夜晩く、灯火が消えた時
--わざと消えるにまかせたのさ--、
きみは私の部屋に来た。私の前に立った。
「その夜」ではなく「昨夜」が、そんな想像を駆り立てる。もしカヴァフィスがカリサリオンを理想の男として描いているのなら、本を読み終わったあとに「きみ」はやってくるのだから「昨夜」は存在しない。本のなかのカリサリオンには「昨夜」はあるけれど……。
そのカリサリオンは「きみ」と何をしたか。それは、もう書く必要がない。「きみ」を完璧な男に仕立て上げたあと、恋は完璧に実現されるだけである。
しかし。
「私の想像は完璧になって、」を別な見方でとらえることもできる。カヴァフィスの想像は完璧になった。だから、その完璧な想像は、「昨晩」さえも作り上げるのだと。
カヴァフィスとカリサリオンは、そういう微妙な「想像の交錯」のなかで融合する。そういう融合(区別のなさ)を引き起こすのが詩というものかもしれない。