「通過する」も男色の詩。カヴァフィスの主観が色濃く出ている。初めて男色の世界に足を踏み入れた「若い子」を描いている。
(われらの技芸なる詩作に)まことにふさわしく
その子は血を快楽にことごとく注ぐ、新鮮な熱い血潮を。
禁断のエロスの恍惚に圧倒されて
その子の身体は若い手足をどっぷりと浸す。
カヴァフィスは、その一夜を簡単にスケッチしている。「快楽」「熱い血潮」「禁断のエロス」「恍惚」と、ことばこそふんだんにつかわれているが、そこからは肉体的なエロスは匂って来ない。「若い手足」と書いてはあるが、それがどんな手足なのかまったく書いていない。だれもが口にする「流通言語」のなかに、ことばそのものが「どっぷりと浸」っている。
この部分をカヴァフィスは、もう一度別のことばで言いなおしている。
こうしてただの単純な子に
わしらが見る値打が出るのさ。
つかの間だがこの子も詩の高い世界を通過する。
官能に生きる新鮮な熱い血の若い子は--。
未経験の「若い子」ではだめなのだ。禁断の一夜を過ごしてこそ「見る値打が出る」。それは禁断の一夜を過ごしても、それっきりでは駄目だということも意味する。一夜でそこを去っていく若い子もいるだろう。一夜を過ごし、そこから脱け出せなくなる。そうなって初めて「見る値打」が生まれる。
(この部分の「ただの単純な子」の「ただの」は「ありきたりの」「ふつうの」という意味だが、そのあとの「値打」ということばと向き合って、ことばの意味が深く複雑になるところに、中井の訳のおもしろさが出ている。口語の響きが、ことばを複雑に、豊かにしている。)
カヴァフィスはその禁断のエロスから脱け出せなかった。そして、それが禁断であるのは常に新しい恋人を必要としたということでもある。そこから脱け出せなくて新しい恋人を求めつづける若い子。そういう若い子がカヴァフィスの愛の対象だったということだろう。
「つかの間だがこの子も詩の高い世界を通過する。」とカヴァフィスは書いているが、ほんとうは逆だろう。カヴァフィスが若い子を詩に登場させ、詩の世界を通過させる。若い子が自分で詩の世界を通過したりはしない。ただ官能の世界を通過するだけだ。その官能を詩に刻印させる。そうして、そのときカヴァフィスは、若い子そのものなっている。若い子になって、カヴァフィス自身の血を新鮮な熱いものに変え、禁断の快楽に注ぐのである。