中井久夫訳カヴァフィスを読む(60) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(60)          

 「オスネロの町にて」。オスネロは「メソポタミアにある小国」と中井久夫が注釈に書いている。その町で、

昨夜、そう、深夜、仲間のレモンがかつぎこまれた。
酒場の乱闘の怪我だった。
開け放った窓から月の光が射して、
寝台にねる美しい身体を明るませた。

 「酒場の乱闘」は、ただ酒場の乱闘と書かれるだけで、具体的には書かれていない。どうでもいいからである。書きたいのはレモンの身体の美しさ。美にはしばしば血が似合う。血が美を強調する。
 それを強調するように、月の光が射している。ただ射しているだけではなく「開け放った窓から」射している。窓が開け放たれることで、窓の外の広い世界、宇宙と身体の美が向き合う。レモンの美しさを宇宙と結びつけるために窓は開かれてある。月の光で傷を見るために窓を開いたのではない。
 さらに、「寝台にねる」がいい。「横たわる」ではなく「ねる」。ねるとき、人は夢を見る。レモンは現実を離れている。死んだというのではない。現実のわずらわしさを離れて、ひとり夢の世界にいる。だれも、レモンに傷を負わせた男も、もうレモンには手が届かない。
 その「身体を明るませた。」まるで、夢の世界の明るさがレモンの身体の奥から、おのずと発光してきているようだ。月の光が照らすのではなく、月の光が身体の奥の美しい輝きを表面に誘い出している。身体が明るむのである。
 身体の奥には、何があるのか。

月がその官能のかんばせを照らしたとき、
わしらの想いはおのずとプラトンのカルメデスに還ったな--。

 カルメデスはプラトンの伯父。ソクラテスは若いカルメデスの身体を完全であると語っている。その美しさを、つまり、ギリシャの奥に生きている美を「わしら」は思い出したというのだが、これはギリシャ人の血のつながりを思い出したということ。
 なぜギリシャの血を思い出したかというと、引用は前後するが、「月が--」の前に

ここのわしらは混血もいいとこ。
シリアのギリシャ移民にアルメニア、メディア。

 という行がある。混血だけれど、その源はギリシャにあると自覚している。その自覚があって、レモンの美しさが輝く。この二行は「起承転結」の「転」のような効果を上げている。「エンデュミオンの像を前にして」の「緋色の三段櫂船」のように。