「街路にて」は二通りの読み方ができると思う。カヴァフィスと「禁断の快楽」を味わった若者が去っていくときの様子を描いているという読み方と、誰かと密会してきた若者とカヴァフィス街路ですれ違ったときの様子を描いているという読み方。後者の方で読み進めてみることにする。
その魅惑の顔はやや蒼かった。
鳶色の眼が疲れをみせつつ宙を見つめていた。
「眼が疲れをみせつつ(みせている)」という表現はだれもがするけれど、これは考えてみるとなかなかおもしろい表現である。「みせつつ」といいながら、「疲れ」を眼自身が見せるわけではない。見る側が読み取る。たとえばカヴァフィス以外の誰かが、この詩の主人公である若者とすれ違ったとしても、「眼が疲れをみせ」ているとは思わないかもしれない。眼に注目しないかもしれない。カヴァフィスが眼に注目し、眼に疲れを読み取った。そして、そこに「疲れ」を読み取るとき、単に「疲れ」だけを読み取るわけではない。「なぜ疲れたのか」。その「なぜ」を読み取る。
ここから「男色」がはじまる。見知らぬ誰かが疲れていたとしても、そんなことはふつうの人間にとっては関係がない。なぜ疲れたのかということは、もっと関係がない。それを読み取ってしまうのは、カヴァフィス自身がその「疲れ」に関与したいからである。
すでに関与した結果であるなら、詩は、少し違っていた形になるだろう。「疲れをみせつつ宙を見つめていた」とはならないだろう。「宙を見つめている」はカヴァフィスを見つめていないということである。カヴァフィスに気づいていないということである。彼は、余韻のなかにいる。そのこともカヴァフィスは、読み取っている。
その子は漂って行く、街路を、あてどなく、
たった今味わった禁断の快楽の
麻酔がまだ切れないかのように--。
こういう「漂い」を読み取ってしまうのは、カヴァフィス自身がそういうことをしてきたからだろう。それも同じ「街路」で、繰り返し。あのときは、「麻酔がまだ切れないかのように」漂っていた。それは裏返せば、いまは、その「麻酔」が切れてしまっている。「禁断の快楽」はカヴァフィスからは遠いということかもしれない。
カヴァフィスは街路ですれ違った若者を見つめながら、遠い昔の自分になっている。「若者」になっている。彼もまた「魅惑の横顔」を持っているのだろう。
「禁断の快楽」というのは、少し露骨な言い方かもしれない。「流通言語」に過ぎなくて味気ないかもしれない。しかし、こういう「みえすいた」ことばをばらまきながら、「疲れをみせつつ」の「みせる」という表現のなかに、自分をそっと隠しておくところがカヴァフィスの不思議な魔法だ。「禁断の快楽」がもっと個性的な表現だった場合、きっと「みせつつ」ということばのなかにあるものが見えなくなる。