「それらが生きて訪れてくれる時は」は、カヴァフィスが自分自身に向けて書いたことばである。
詩人よ、きみのエロス的な幻影を
取っておこうとしろよ。
いくら数が少なくてもいい。まだやれるか。やってみろよ。
そっと詩の行間に隠しておけよ。
残そうとしろよ、詩人よ、
生きてきみのこころを訪れるまぼろしを、
その時が夜であろうと、真昼のまぶしい陽ざかりであろうと--。
二行目の「取っておこうとしろよ。」が少し曲折している。歪んだことば運びではないだろうか。ふつうは「取っておけよ。」と言ってしまいそうである。「おこうとしろよ」には何か「未来」というものが含まれている。いま、取っておくのではなく、そういう機会が未来に訪れた時は取っておけるように準備(こころがけ)しておけよ、と言っているように聞こえる。
なぜ、こういう言い方をするのだろう。「いま」それがないからだ。
「いま」詩的エロスがない。欠如している。そのことを自覚している--そう読んでみると、次の「まだやれるか。やってみろよ。」が肉体に生々しく跳ね返ってくる。まだやれるか、不安である。やってみろよ、とこころの奥底でもうひとりの自分がけしかけている。でも、やれなかったら? そういう不安は直接書いてはいないが、「まだやれるか。やってみろよ。」の間髪をおかないことばの掛け合いが、それを感じさせる。
終わりから二行目の「生きてきみのこころを訪れるまぼろしを、」の「生きて」が、やはりことばとしてねじまがっていて、そこに不思議な何かがある。
「きみのこころを訪れるまぼろしを、」なら自然に読めるが、わざわざ「生きて」書いているのはなぜか。多くの「まぼろし」が死んでしまったからなのか。たとえば、その「まぼろし」を恋人と考えるなら、恋人の多くが死んでしまったということはなかなか考えにくい。想像しにくい。「死んでしまった」のではなく、「去ってしまった」のだろう。だから、去るのではなく、いまからやってくる「未来の」恋人については、彼が完全に去ってしまわないようにしろよ、ということなのかもしれない。
どんなふうに? 「行間に隠しておけよ。」ということばが教えてくれる。何もかもすべてを書くのではなく、あるものを行間に隠しておく。わからないようにしておく。生き延びさせておく。もし恋人が去ってしまっても、その隠しておいた幻影を呼び出し、そっと思い出のなかで出会うことができるように。行間から「生きて」動きだすように。
行間は、読みたいひとだけが読む。読みたいものだけを読む。そのために、存在する。