中井久夫訳カヴァフィスを読む(55)
カヴァフィスは史実に題材に詩を書くことが多い。「マヌエル・コムニノス」はビザンツ皇帝の死の間際を描いている。
蕭条たる九月。そのとある日、
マヌエル・コムニノス皇帝は
おん自らの崩御近きを感じられた。
宮廷占星術師らは--むろん給与を貰う役人だから--、
おん生命はなお何年もございますと言いつづけた。
だが彼等が言いやめぬうちに
帝は宗教の古い教えを思い出されて
教会の法衣をさる修道院から
もってこよと命じられ、
身に着けられて、目だたぬ衣裳で
司祭か僧に見ゆるをよしとされた。
主観を口語で語らせ、その口調に人間性を浮かび上がらせるということをカヴァフィスはしばしばおこなっているが、この詩には主観が噴出していない。マヌエル・コムニノス皇帝は客観的に、第三者の目から描かれている。法衣を「もってこよ」ということばが肉声に近いかもしれないが、それも間接話法である。
中井久夫は注釈によると「好戦的、迷信的、好色的だった」らしいが、そういう面影はそこにはない。史料によると、死の床で法衣を着させたのは神父だったらしいが、カヴァフィスは皇帝自らが法衣を選んだというふうに書き直している。
肉声(主観)を躍動させるかわりに、カヴァフィスは、違う形の声を描くためにマヌエル・コムニノス皇帝を選んだようだ。
「好戦的、迷信的、好色的」な人間のなかにも、死ぬ瞬間に、「宗教的」になるひともいる。そういうひとの「声」というものを、カヴァフィスは「声」ではなく、様子(態度)であらわしている。
占星術師がいろいろ言う。その彼らが「言いやめぬうち」が、その「態度」のいちばんおもしろい部分である。占星術師らが言うのを制してと同じ意味だが、「やめろ」と言って話を中断させるよりも強い感じがする。彼が言いたいことは「やめろ」ではない。ほかのことであり、そのことについては有無を言わせない。この強さ(信念のゆるぎなさ)が、修道院の法衣へと静かにつながっていく。皇帝は、静かに宗教的な人間に進んで行ったのである。宗教的な道に進む人間には熱狂的な進み方もあるが、皇帝は熱狂とは違う方法で進んで行った。しかし、熱狂的ではないけれど、何か確信的である。教皇ではなく「司祭か僧に見ゆるをよしとされた」というのも、静かな印象を浮かび上がらせる。
この静かな感じは、書き出しの「蕭条たる九月」の「蕭条たる」にも現れている。(これは中井の語彙の選択のたくみさとも言える。)カヴァフィスは情景の空気や人間の態度をも「声」として再現する詩人なのである。