中井久夫訳カヴァフィスを読む(54)  | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(54)          

 「マグネシアの戦い」は、「マケドニア王フィリポス五世の独白である」と中井久夫が注釈で書いている。カヴァフィスは「他人の声」を聞き取り、自分の声として動かす。ほんとうにフィリポスが言ったかどうかは問題ではない。ある状況のとき、ひとはどんな声を出すか。そのことにカヴァフィスは関心がある。

テーブル一杯にバラを撒け! アンチオコス大王が
マグネシアで負けたからって、それがどうした?

あいつの精鋭陸軍全滅というが、少し話が大きくなってるだろ。
全部が全部ほんとってこたぁない。

とにかくそう望む。敵じゃあるけど同人種だもんな。
だが望むのは一回でいい。多すぎるくらいさ。

 「望む」ということばがある。ひとは、何かを望む。そして、それを声にする。その声にカヴァフィスは共鳴しているのだが、それはカヴァフィスにそういう経験があるからだ。戦争で負けた、という経験ではなく、何か取りかえしがつかなくなったときに「それがどうした?」と開き直った経験が。あるいは、そういう具合に開き直りたいと思った経験があるのだろう。
 戦争に負けた経験がなくても、「それがどうした?」といいたい気持ちは誰もが経験する。気持ち、本音--それが動けば、それでいい。「史実」は本心を動かすための「舞台装置」である。カヴァフィスは「史実」を書きたいのではなく、その瞬間に動いただろう「こころ」を書きたい。
 開き直りたい欲望。それから「全部が全部ほんとってこたぁない。」という欲望。
 日本語の場合、「欲望」ということばのなかには「望む」がある。「欲張って/望む」のか。いや、「欲(本能)」そのものが「望む」のだろう。
 中井の訳は、口語、俗語を取り入れている。口調をふんだんに生かしている。そうすることで、その「欲望」の生々しさを表現している。生々しいというのは、誰にでもわかるということ、自分でも経験し、思わず口にしたかもしれないことばであるということだ。本能が、口語のなかで共通なのだ。本能という共通語が、口語になっている。
 ほんとうは別なことをしなければいけないのかもしれない。しかし、義務としてしなければならないことではなく、義務を放り出して、ただ自分のためだけに時間をついやしたい。無駄なことをしたい。そして、ほんとうのことを忘れたい。--これは、本能を傷つけたくない。本能を無垢のままにしておきたいという「甘え」かもしれない。
 しかし、この「甘え」が美しい。自分を甘やかすことを知っているというのは、何か、俗人を超越している。俗人は心配性で、自分を甘やかすことを知らない。