「オロフェルネス」。中井久夫の注釈に「カッパドギア王アリアラテス四世の子」とある。四ドラクマの貨幣に描かれている。「美しい、優しい美貌」であった。カッパドギアに侵入したシリア軍によって王にされたが、カッパドギア人によって追放され、シリアに幽閉され、「ぶらぶら暮らしていたそうな。」
ところが、ある日、思いもよらぬ考えが
彼の完璧に怠惰な生活に侵入した。
自分も、母のアンティオスと
祖母の老ストラトニケを辿れば
シリアの王位に繋がると気づいた。
自分もセレウコス家といってよいんだ、と。
しばらく酒色を慎んで、
おっかなびっくり陰謀を始め、
何かしでかそうと案を立ててはみたが、
あわれ、失敗。それっきり。
人生が波乱に富んでいた。その波乱を漢語(漢字熟語)と口語(俗語)を交錯させて中井は訳出している。この、ことばの乱調が波乱の人生を不思議な音楽にしている。
「完璧に怠惰な生活」という表現の「完璧」と「怠惰」の結びつきは、手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのように斬新だ。それだけで詩がある。カヴァフィス(あるいいは中井)は、それだけではなく「おっかなびっくり」と「陰謀」を結びつけることもしている。陰謀というものは周到に仕組むものだけれど、「おっかなびっくり」という陰謀にふさわしくないことばがついてまわるのは、その陰謀がひとの口にのぼったということだろう。もちろん失敗したあとでのことだが、人は「おっかなびっくり」ということばでオロフェルネスを自分たちに近い存在にしたのだ。それだけ、彼に、一種の親近感をおぼえたということだ。「あわれ、失敗、それっきり」も「歴史」を語ることばではなく、歴史からこぼれた庶民の感覚のあらわれである。
市民が、「オロフェルネス王」を望んでいたかどうかではなく、そういう失敗をする人間に共感するという「本音」(主観)がくっきりと現れている。ある考えが「完璧な怠惰な生活に侵入した」という硬いことばとの対比で、その「主観」がいっそう際立つ。
カヴァフィスは、どこかに消えてしまった歴史は捨てて、再び美貌にもどる。この男色という主観は、カヴァフィスの思想、肉体である。
四ドラクマ貨幣の像。
若い魅力はいまもかおる、
詩的な美は--。
このイオニアの少年の官能的な像は、
アリアラテスの子オロフェルネスだよ。