ここで休もう。しばらく自然を眺めさせてくれ。
朝の海のきらめく青。雲のない空の光る青。
黄土色の岸。みなすばらしい。
みな光にゆあみしてる。
この「朝の海」に書かれている風景を見るために、人は、アレクサンドリアに行かなければならない。「アレクサンドリアの海岸は黄色の砂」と中井久夫は注釈で書いているが、その青と黄色の対比が生み出す輝きを見るために、カヴァフィスの生きたアレクサンドリアへ行かなければならない。
そういうことはない、と私は思う。
むしろ読者がしなければならないのは、ここには書かれていない時間、朝の前の時間、つまり夜をカヴァフィスと同じように過ごさなければならない。
カヴァフィスは「過去」を詩のなかに書かず、「いま/ここ」だけを書く。そのために、そこで起きていることをつかみ取るのがむずかしい。「いま/ここ」があるのは、「過去」があるからであり、「いま/ここ」には過去こそが噴出してきている。
一行目の「ここで休もう。しばらく自然をながめさせてくれ。」は単に朝の海の風景をながめて休もうと自分に言い聞かせているのではない。きのうの夜、カヴァフィスは「自然」ではないことのために体力を使い果たした。「不自然」なことをして、時間を使い果たした。そういう意識があるから「自然」を眺める、ということばが動く。
ここに立たせておいてくれ。こういうもの皆を見るふりをさせといてくれ。
(立ち止まった初めに一分間ほんとうに見たよ)
ここでもいつもと同じ白昼夢を見ているのだが、
おのれの思い出を、あれらの肉感的イメージを--。
しかし、カヴァフィスの本能の自然は、そういう朝の風景とは違ったところにある。だから、最初の一分間は、そこにある朝の風景を見たかもしれないが、やっぱり自分自身の自然に(自然から見ると「不自然」に)返っていくしかない。
だからこそ、言う。「こういうもの皆を見るふりをさせといてくれ。」彼のしているのは「ふり」なのだ。風景を見ているというのは嘘なのだ。アレクサンドリアの海を見るというのは嘘なのだ。
正直な本能は、昨夜の「満足」を思い出している。見ているのは詩人の肉体が体験した「過去」である。「肉体」は満足した。その満足は、朝の海の青、空の青、そして砂浜の黄土色があざやかに輝きよりもさらに強く光を放っている。書かれていない「過去」こそがカヴァフィスの書きたいことである。
そのことを「たたせておいてくれ」の「おいてくれ」が補強している。放置。すべてから放置され、自分の肉体のなかに残っているよろこび、その強い光に酔って、眩暈を味わいたいのだ。