「描かれて」は行き詰まったカヴァフィスが一枚の絵から刺激を受けて元気になる様子を書いてる。その書き出し。
仕事は好きだ。気を入れてやってる。
だが今日という今日は進みののろさに我ながらがっかり。
天気のよくない影響だな。
どんどん暗くなる。小止みない雨に風。
話などするよりも ものを見ていたい心地だ。
五行目の「話などするより」が難しい。
これは、美少年をあさりに出かけるより、と想像するとわかりやすくなる。欲望、官能のために少年と会う。そのとき無言でセックスをするというわけにはいかないだろう。何らかの話をする。知らない少年が相手なら、何事かを聞き、また聞き返されるということもある。それが「話をする」ということである。
ほかにも表現の方法はあるかもしれないが、ここに「話をする」という動詞、「声」にかかわる動詞を持ち出すところが、カヴァフィスらしい。カヴァフィスはいつでも他人の声を聞いている。声のなかに動いている欲望を聞いている。
この声を聞きたい、聞かせたいという欲望は、仕事(詩作)がうまくいったときは、はつらつと動くのだが、詩の声が充分に動かなかったときは、他人の声を聞くことが苦痛になる。自分の声を出すこともいやになるということだろう。
だから、もうひとつの欲望、視力を満足させる。
今 見ている絵。美少年が
泉のほとりにねそべっている。
走り疲れたのだろうか。
何という美しい子。この世ならぬ真昼の光が
眠る子をつつんでいることか。
現実では雨が降っている。暗い一日。それとは反対に絵のなかでは真昼の光があふれている。この対比が強烈だ。そして、そこには美少年が眠っている。--つまり、カヴァフィスが見つめていることも知らずに、である。カヴァフィスは自分の疲れた姿を見られることなく、一方的に見ている。見つめ合えば、どうしても「話をする」ということがおきるが、相手が眠っているなら、そういうこともしなくてすむ。声(話)に絶望することもない。そこではカヴァフィスこそが夢みているのだ。
その夢みている自分をカヴァフィスは「真昼の光」にたとえている。美しいのは少年であると同時に、その少年をつつむ光の輝き。「美しい子」というばかりで、その美の特徴をカヴァフィスは書いていない。「つつんでいる」と昼の光を描写するだけである。
美少年を見るというよりも、それを見守る自分の美しさをカヴァフィスは取り戻す。