「彼は誓った」は恋人の書いたのだろうか。ふしだらな生活を繰り返してしまう恋人にカヴァフィスは注意する。そうすると、
彼は何度も誓った。もっとちゃんとした生活をしますと。
だが夜が来ると、夜は夜らしいそそのかしをする。
夜の妥協と期待をささやく。
夜になると身体も不足をいい、要求する、強力に。
夜になると踵を返して相も変わらぬ宿命の快楽に溺れて自分を駄目にする。
一行目の「もっとちゃんとした生活をします」ということばが平凡で、それが切ない。人間は反省するときしばしばこんな平凡なことばを口にする。反省しているのではない。叱られている時間が過ぎていくのをただ待っているのだ。叱られている時間を遠ざけるために、そう言っているだけなのだ。「何度も」誓っているが、それは心底そう思っているわけではないから、「何度も」誓いを破る。
二行目以降、「夜」が繰り返される。一行目の「何度も」に呼応している。そういう夜が「何度も」あるのだ。一日のことではなく、繰り返される「夜」。ただし、それは「毎日」ではない。いや、それは「毎日」だとしても、きのう、きょう、あすと連続しているのではなく、その日、その夜、一夜ごとに独立した、瞬間的な夜である。繰り返される夜は、同じ夜ということばだが、ほんとうは違った夜である。
二行目は「夜」が主語である。「夜」がそそのかす。しかし、夜は人間ではないから、そそのかしたりはしない。恋人のなかの、反省しない男が、彼をそそのかす。こころの声が呼びかけるのである。
だれに?
四行目。「身体」に。こころの声が身体をそそのかす。それに応じて「身体」の方も「あれがしたい、あれをしないと満足できない」と声を上げる。甘えん坊のこどもみたいに駄々をこねてみせる。
だれに?
こころに。
そうしてこころと体は一体になり、「誓い」を破る。「誓い」は、他人に(カヴァフィスに)向かってしたことであって、自分の身体に誓ったことではない。自分の快楽に対して誓ったのでもない。
「宿命」はこころが身体に対して言っているか、身体がこころに対していっているのか、わからない。区別がない。
同じように、この詩は恋人が「言い訳」をしているように見えるけれど、その言い訳に反論せずに聞いているのだから、それはカヴァフィスの声でもあるのだろう。
何度も何度も「ちゃんとした生活」をしなければと思いながら、夜になると夜にさまよいでてしまう。夜がそそのかした、と言い訳をしながら。