中井久夫訳カヴァフィスを読む(48) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(48)          

 「カフェの扉にて」は美貌の若い男がカフェの扉を開けて入ってきた瞬間の、カフェのどよめきを書いている。

そばでざわめきが起こった。
カフェの扉のほうを見ると--、
見えた。何と美しい身体か。

 美の発見の瞬間、あるいはそれに先立ちというべきなのか、感覚の刺戟が「ざわめき」という聴覚からはじまっているのがカヴァフィスらしいと思う。聴覚は四方に開かれている。どの方向のものでも、それをそのままつかみとることができる。逆に言えば聴覚は、起きていることの「正体」が何かわからないままでも、何かをつかむ。「正体」がわからないから、視覚が聴覚のつかみとったものを追いかける。「見ると--、見えた。」という克明な瞬間の変化がいい。瞬間なのに、「見る」という動詞のなかに違いを導入せずにはいられないほどの「美しさ」がカヴァフィスを捉えたのだ。
 美しい身体「が」見えた、ではなく、「見えた」と自分の肉体に起きた変化を言ったあとで、感嘆文「何と美しい身体か」がやってくる。この倒置法のリズムもも生き生きしている。見えたものを「美しい」と言うまでに時間が必要だった。「何と」という余分(?)なことばも必要だった。「美しい」は即座にはことばにならないほど衝撃的だった。
 この衝撃を再現する中井久夫の訳が、ダイナミックで力強い。
 この美しさは「エロスが技巧の限りを尽くして作ったのではないか。」と驚いたあと、ことばは次のように動く。

エロスは、美しい肢体(てあし)を楽しく揃え、
すんなりと伸びた背丈の型をこね、
やさしいかんばせを整え、
さて、眉と眼と唇に指先を触れて
特別の触れ跡を残したのではないか。

 カヴァフィスは視力の詩人ではない。美貌の男を「見て」描写しているのではない。エロスそのものになって、美青年をつくりあげている。想像力ではなく、肉体で、手で、指で、その肌に触りながら形を整えている。
 見ることは触ることでもある。視線で触るだけではなく、カヴァフィスの場合、そのときほんとうに肉体の指が相手の肉体に触っている。視覚と触覚、眼と指が区別できずにつながっている。 美貌をつくりあげながら、カヴァフィスは、自分自身の指を(肉体を)、その男の肉体に刻印したいと欲望している。
 最初の三行の、短いことば、倒置法の断絶と飛躍に比べると、後半は、ことばが持続したままぐいぐいとつながっていく。それは指で男の肌をなぞりつづける欲望のように、はてなく、長く持続する。ことばが、そのまま肉体の動きになっている。