中井久夫訳カヴァフィスを読む(47) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(47)          

 「テオドトス」は中井久夫の注釈によれば、「アレクサンドリアに在住のギリシャ人弁論述教師でカエサルに敗れてアレクサンドリアに亡命してきたポンペイウスの殺害を市民に説いて実行させた(前四八年)。」しかし、

テオドトスが血塗れの皿に載せて
哀れなポンペイウスの首を
アレクサンドリアのきみに持ってくるのが潮の変わり目だ。

 と詩に書いてあるのは虚構だという。ポンペイウスの「首をカエサルに持っていった事実はない」という。カヴァフィスは事実と虚構をまぜて書いている。「しかし賢人はまさに起ころうとすることを認知する」には先人の文章を換骨奪胎してつかっていた。これも事実と虚構の結合である。
 このときカヴァフィスの書きたいのは何か。もちろん虚構である。ただ最初から虚構を書くのではなく、「事実」を利用して、ことばを動かす。これは虚構のことばを「事実」を借りて補強するということなのか。
 そうではなく、虚構の部分でつかっていることばへの偏愛があるのだ。あることばをつかいたい。その欲望を満たすためにカヴァフィスは「事実」を利用する。
 「血塗られた皿」の上の「首」。これは「サロメ」ではないか。そこには歪んだ愛がある。ただの憎しみから首を切るのではない。血と殺人への甘い誘惑、甘い官能がある。

きみの人生は散文的。規則で縛られ、身動きならぬ。
だからといってないと限らぬ、
今みたいなこと、恐ろしい目覚ましいことが。

 カヴァフィスは、詩へ誘惑しているのだ。カエサルを? そうではなく、読者を。人は誰かを殺し、その首を皿に載せて誰かに届けるということなどできない。でも、それができたら、官能はきっと震えるだろう。青ざめた生首ではなく、血塗られた生首。皿にあふれる血には顔が映っているだろう。それは恐ろしい光景だが、そして非日常的な光景だが、非日常だから詩なのだ。
 「恐ろしい目覚ましい」というふたつのことばの結合。切り離せない錯乱。「恐ろしく目覚ましい」ということばでは不可能な何か。
 そういうことを補強する--というよりも、鏡の朱泥となって浮かびあがらせるために、わざと「散文的」ということばを含む、散文ぽいことばを続けている。
 詩的ではないことばで、詩的なことばを挟むと、その挟まれたことばはよりあざやかになる。ひきずられて「潮の変わり目」というような常套句さえ、何か輝かしい比喩のことばに見えてくる。実際「潮の変わり目」というのは比喩のひとつではあるのだが、ふつうは無意識につかわれる比喩が、大事なことを知らせるための重要なことばとして屹立してくる比喩に生まれ変わっている。