「しかし賢人はまさに起ころうとすることを認知する」はフィロストラトス「テュアナのアポロニオスの生涯」を踏まえている。「なぜなら神々は未来の事件を認知し、凡人は現在の事件を認知するが、賢人はまさに起こらんとすることを認知するからである。」をそのまま引用してはじまる。
凡人は知る、いま起こっていることを。
神々は知りたもう、未来の事柄を。
あまねく光を受けているのは神々だけである。
だが賢人は未来の事象を
まさに起こらんとする刹那に気づく。
違いは「あまねく光を受けている」という神々への修飾語である。これは客観ではなく、カヴァフィスの主観。光から、賢人は視力で起きようとしていることに気がつくのだろうか、カヴァフィスもまた視覚の人間なのかと思うと、このあとが独自の展開になる。
強烈な集中の瞬間、時たま賢者の聴覚が乱れて
接近しつつある事態の秘密の音が届く。
賢者は畏れかしこんで聴く、戸外の通りにいる
民衆には全然聞こえない音を。
カヴァフィスは耳のひとである。聴覚で未来を感知する。「秘密の音」がそれを証明している。
おもしろいと思うのは二点。聴覚が「乱れ」て、その乱れのなかへ「音」が届くということ。聴覚が研ぎ澄まされて、ふつうには聞こえない音を聞くのではない。耳を澄まして、聞くのではない。だから「強烈な集中の瞬間」の集中というのは、賢人の意識が集中したときというのではない。彼のまわりで何かが集中する。「こと」が集中する。意識を集中しようとして集中できなくて乱れるというのでも、意識が集中しすぎてぶつかりあい乱れるというのでもない。賢人とは関係がない。賢人の意識とは関係なく「こと」が集中する。「未来」が起きようとする--未来へ向けて「こと」が動きはじめる。動きだすために「こと」自体が集中する音。それを賢人は聞く。
もう一点は、今書いたことを少し違った位置から言いなおすことになるが、「集中の音」が「戸外の通りにいる」民衆には聞こえないということ。「集中」は賢人のいる部屋の中で起きるのではなく、賢人とは無関係な「外」で起きる。それなのに、その「現場」に近いはずの「戸外/通り」にいる民衆には聞こえず、そこから離れた部屋の中、いわば外部から閉ざされたところにいる人間には聞こえるということ。
カヴァフィスの描く賢人の「聴覚」は矛盾を抱えてることになる。矛盾しているからこそ、真実でもある。まだ、ことばにならない真実というのはいつでも矛盾である。