「はるかな昔」も男色の詩。この詩の声は非常にロマンチックである。甘く揺らぐい声である。
この記憶をぜひ話したい。
だが今はもうひどく色あせて--消えて尽きたかのよう--
はるかな昔だから、私の青春時代だから。
ことばが少しずつ多い。両端を切って捨てるような、剛直なリズムのカヴァフィスに馴染んでいるとカヴァフィスとは思えない。
二行目の「もう」「ひどく」はなくても意味は同じ。それでも「もう」「ひどく」ということばを書くのは、ほんとうは「もう」「ひどく」をこそ書きたいからだ。「もう」というとき、「ひどく」というときに動く「主観」。その動きをつたえたい。
「はるかな」も「昔」を修飾することばというよりも「はるかな」という意味を「昔」が支えている感じだ。「青春時代」も「はるかな」を彩る音楽である。青春時代がはるかなのではなく、「青春時代」という「意味(流通概念)」で、「はるかな」という軽い音を美しいメロディーに変える。
前後するが「消えて尽きたかのよう」という「直喩」がロマンチックなのである。「よう」と言わずにおれない主観の動きが、この詩の生命である。「暗喩」では主観が隠されてしまう。
ジャスミンの肌--
あの八月の夕べ--はたして八月だったか?--
眼だけは思い出せる--青--だったと思う。
わざと「不確か」をよそおう。「はたして」ということばで補強する。「思う」という動詞をつかって、思うときに動く「こころ」を強調する。それもこれも「主観」をあざやかにするための技巧である。
最終行。
そう、青--サファイアの青だったね。
これは誰に言い聞かせているのか。誰に念おししているのか。カヴァフィス自身に対してである。主観が客観に対して、念おししている。客観を主観がリードして整えているのである。ふつうは逆だ。主観の暴走を客観が抑えるのが、ことばの運動である。
カヴァフィスは客観の枠を叩き壊し、主観を解放する。甘く甘く、さらに甘く輝かしいものにする。