「シャンデリア」はシャンデリアの描写からはじまり、「官能」ということばをとおり、比喩になる。シャンデリアと書かれているが、カヴァフィスはシャンデリアを描いたのではないことは明らかだ。
美しいシャンデリアが燃えている。すべてが火。
その炎の一つ一つが埋み火を燃え上がらせる、
官能を熱病を、放蕩の誘いを。
シャンデリアは若い男である。それがカヴァフィスの「埋み火」を燃え上がらせる。若い男の輝きを見ながら、官能の熱病に苦しんでいるのはカヴァフィスである。放蕩の誘いに苦悩しているのはカヴァフィスである。
シャンデリアの熱い火の
輝きがくまなく照らすために
ありきたりの光は小部屋に入れない。
この官能の熱は臆病な身体には縁がない。
ここではカヴァフィスはほかの男を牽制している。豪華なシャンデリアのような輝きの男--その男と拮抗できる、その男の相手をできるのは自分だけだと言っている。ありきたりの人物では、豪華な光に打ちのめされるだけである。
官能におぼれても生き残れる自信のあるものだけが、その官能を味わうことができる。カヴァフィスは、自分の身体はそれに立ち向かうことができると明言している。自分は臆病ではない。どんな官能もむさぼり食ってやると言っている。
この強い自信が、シャンデリアの輝きをいっそう美しくする。その自信がなければシャンデリアを見ることすらできない。
あるいは立場を逆に読んでみるのもおもしろいかもしれない。「埋み火」から、その「埋み火」の持主を年をとった男(カヴァフィス)と考えてしまったが、カヴァフィスがシャンデリアで、それに群がる若い男たちが「ありきたりの光」かもしれない。
官能は若いだけが取り柄ではない。若い火はすぐに燃え上がるが、すぎに燃え尽きる。焼尽しないうちに、「埋み火」になってしまう。その若い男たちに「もう一度、その官能の火を燃え上がらせて見せてやろう」と自信たっぷりに誘っているかもしれない。自分が味わってきた官能、放蕩のすべてを豪華に身にまとっているカヴァフィス。
カヴァフィスのはち切れるようなリズム、剛直な響きには、後者の方が似つかわしい。カヴァフィスは一九六三年生まれ。この作品が書かれたのは一九一四年だからカヴァフィス五一歳の時である。「埋み火」を肉体に抱えているというほどの高齢ではない。