「店のためには」は宝石店の店員を描いている。彼は一つ一つを美しい花のようにあつかっている。
紅玉のバラ、真珠のユリ、
紫水晶のスミレを--、
自然の姿、化学の通りでなく
おのれの好み、おのれの思うとおりに
それぞれの美についてのおのれの考えに従って。
こちらは傷つけぬようにしてずっと蔵っておく。
この詩にも「主観」が動いている。「おのれの好み」「おのれの思うとおり」「おのれの考え」。「おのれの」が繰り返されるたびに、「彼」の姿が見えてくる。「おのれ」を主張する強い欲望が浮かび上がってくる。「彼」がその店にいるというよりも、「彼」の内部に生きている「欲望」そのものが見えてくる。
おのが大胆さ、わが技巧の極致の見本だもの。
彼は宝石を売ろうとしているのではない。彼自身の欲望を売ろうとしている。男色家なのだ。宝石をあつかう手つきを見せている。手--そして、その手につながっている肉体そのものを誇示する。大胆としかいいようがない。その肉体の見せ方を、彼は「技巧の極致の見本」と自分で言っている。何度も成功しているのだろう。
この行でおもしろいのは、「おのが」と「わが」という二つの区別である。「おのが」は「おのれ」を引き継いでいる。しかし「わが」は違う。
「おのが」は「内面」があふれてきたもの。「おのれが」ということばといっしょに動く「好み」「思う」「考え」も内面である。「大胆」も内面。それに対して「わが技巧」の「技巧」は内面ではない。むしろ外面である。外側にあらわれた、目に見える動き。人に共有されたことがある「外面」が美しい。その技巧的外面で、彼は客を誘う。
最初、宝石は石の名前で呼ばれている。しかし、最後には、
おれは他のものを売ろうと持ち出す。
第一級じゃあるが、装飾品--腕輪、鎖、ネックレス、指輪を。
装飾品は、それが肌に接するものであることを意味する。肌とは切り離せない。宝飾品を売ることは、彼にとっては肌を、自分自身を売ることなのだ。
「第一級じゃあるが」という中途半端なことばがそれを暗示する。第一級じゃあるが、「わが肌」よりは劣る、と彼は言っている。