「せめて出来るだけ」は、私にはかなり奇妙な作品に見える。
思いどおりに人生を創れなくとも、
せめてやってみろ、出来るだけ
人生の品質を下げぬようにと。
世間接触しすぎるな。
働きすぎるな、話しすぎるな。
「奇妙」と感じるのは、「やってみろ」といいながら、そこで主張されていることは「……するな」という否定形の命令であるからである。何をしたらいいのか、これではわからない。
別な角度から考える必要がある。「やってみろと言っているのはだれか。言われているのはだれか。おそらく両方ともカヴァフィスである。カヴァフィスがカヴァフィス自身に語りかけている。そして、語りかけられている人間には「やりたいこと」は決まっている。語りかけている詩人にも、それは充分にわかっている。
だから、それは思う存分やれ。ただし、それをするときに「人生の品質を下げぬように」に注意しろ。(「……しろ」は肯定の命令形だが、その内容が「下げない」と否定形なのだがら、これも否定命令形である。)
そこに書かれている否定形にも特徴がある。「……しすぎるな」が繰り返されている。これは二連目にも出てくる。
人生を広げ過ぎるな、
引き廻すな、
社交やパーティーのくだぬ日々に
人生を曝し過ぎるな。
「……しすぎるな(過ぎるな)」という命令形もまた、ひとつのことを明らかにする。「……しずぎるな」と言わなければならないほど、すでにカヴァフィスはそういうことをしている。多くの人と接触し、働き、話している。人生を広げすぎている。
すでに過剰なのだ。だかこそこ「せめて」「できるだけ」、やってみろ、というしかない。
しかし、これは効果がないだろうなあ。
言ったくらいでできるなら、そういうことははじめからしていない。絶対にやれるはずがないとわかっていて、リッツォスは「せめて」「できるだけ」とことばの印象をやわらかくしている。しかし、この「せめて」「できるだけ」という注釈こそが自分への甘やかしのすべてである。そのことばはすでに「してもいい」を含んでいる。
これは矛盾である。しかし、矛盾しているからこそ、詩はいきいきと輝く。