「めったにないことだが」は老人が描いている。「時間と不摂生に駄目にされて」しまった男。カヴァフィスの自画像とも読むことができる。年老いてしまったが、こころは青春時代をくっきりとおぼえている。青春のこころを、まだ自分のものと感じている。
カヴァフィスにとって青春とは……。
今 青年たちはおのれの詩を口ずさみ、
彼等の涼しい眼はおのれのものの見方に倣い、
彼等らの感性溢れる健康な心と、
形よくしゃっきっと伸びた身体は
美とは何かというおのれの物差しにあわせて
動いているではないか。
青春の特権とは何か。若さ。若さとは何か。「おのれ」の主張である。「おのれ」という主観である。この詩には「おのれ」ということばが繰り返される。「おのれ」と何度も言えることが若さである。何度繰り返しても言い尽くせない「おのれ」が肉体からあふれてくるのが若さというもの。
この「おのれ」という訳はとてもおもしろい。日本語では「おのれ」だが、ギリシャ語(ヨーロッパの言語)では、たぶん「彼」であろう。「彼の詩」「彼のものの見方」「彼の物差し」。日本語はひとつの文のなかで、直接話法/間接話法という「文法」をくぐらないまま、「彼」を「私」に言い換えて主張することができる。この特徴を生かして、中井久夫はカヴァフィスの思想(本質)を生き生きと描き出している。
繰り返される「おのれ(の)」は主観である。「おのれの詩」では「主観」という印象は少ないが、「おのれのものの見方」「おのれの物差し」は主観を言い換えたもの。カヴァフィスの詩には、主観が溢れている。登場人物が誰であれ、カヴァフィスは彼らに主観をしゃべらせる。主観を生き生きとした「声」として描き出す。
中井は「彼等の」ということばもつかっている。「彼等の涼しい眼」「彼等の感性」。「彼等」と「おのれ」を組み合わせ、ごちゃまぜにして、区別できないものにしている。青春は客観と主観の区別がない時代のことでもある。
カヴァフィスは(中井のカヴァフィスは)、その「ごちゃまぜ、区別なし」を老人になっても生きている。青年を描きながら、そこに「おのれ」の、つまりカヴァフィスの主観を、彼等の「おのれ(自己)」と同じものとした描いている。
最後の三行は、とても美しい。そこに描かれているのは、形よくしゃきっと伸びた「おのれの」身体である。青春の「おのれ」は精神的なもの(ものの見方)だけではなく、身体そのものが「主観」だ。そして、その「主観」が絶対(物差し)だ。
「形よくしゃきっとした」という若い音が美しい。中井の、口語の感覚がとても生きている部分だ。最後の「動いている」ということば、どんな動きか特定せず、ただ「動き」そのものに焦点をしぼっているのもいいなあ。