中井久夫訳カヴァフィスを読む(28) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(28)          

 「神 アントニウスを見捨てたまう」はアントニウスの自殺前夜のことを書いている。シェークスピアの劇にもなったアントニウスとクレオパトラ。その、アントニウスが「運は尽きた」と悟ったときの「声」が書かれている。
 何を思ったか、どんな思いがアントニウスのこころを駆けめぐったか。いろいろなことが思い浮かんだだろう。そのなかからカヴァフィスは次の「声」をつかみ取る。

自己欺瞞はやめろ。
これは夢だと言うな。
聞き違いだと言うな。
無駄な希望にもたれかかるな。

 ひとはどんなに絶望的なときでも、もしかしたら……と考える。これは何かの間違いである、これは夢であると思おうとする。そういう思いを「自己欺瞞」という強いことばで否定し、さらに思いのひとつひとつを否定形の命令でつぶしてゆく。
 これは「男」の声である。
 実際に「男」がそういう声を生き抜くことができるかどうかはわからないが、男はそうあるべきだと言われいる「男」のひとつの理想の姿である。

かねて覚悟の男、
いさぎよい男らしく、
一度はこのまちをさずかったおまえらしくだ。

 「男」が繰り返される。「覚悟」と「いさぎよい」が男を決定づける。
 そして、その「覚悟」「いさぎよい」を印象づけるのが短い「音」である。長い文章ではなく、切り詰めたことば、否定の命令形だ。長々と動くものを断ち切って、捨てる。そのリズム、その音楽のままに、最後に否定の命令形は肯定の命令形にかわり、炸裂する。

こころに沁みてあの音をきけ。
しかし祈るな。臆病な嘆きを口にすな。
最後の喜びだ。あの音をきけ。
不思議な楽隊の妙なる楽器をきけ。
そしてさらばと言え。彼女に。
きみを捨てるアレクサンドリアに。

 肯定、否定、肯定とゆらぎながら、最後に肯定で終わる命令形。そのあとの命令ではないことば。その余韻の透明な美しさ。「いさぎよい覚悟」だけが手に入れることのできる余韻。