中井久夫訳カヴァフィスを読む(25) | 詩はどこにあるか

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 「三月十五日」はカエサルが暗殺された日。アルテミドロスが危険を察知して進言したが、カエサルは無視した、という史実が踏まえられている。

わが魂よ、用心だ、栄耀栄華にゃな。
野心を押さえこめないなら
せめて慎重に ためつすがめつ進んでくれ。
上にゆくほど
よっく調べて気をつけにゃあ。

 この詩でも口語(俗語)が効果的だ。口語によって、この詩の主人公がどんな状況を生きてきたかがわかる。周囲にいる人間がわかる。格式張った人間だけではなく、もっと欲望がむきだしのままぶつかりあう場で生きてきたことがわかる。
 しかも、彼は単に俗語だけを生きているわけではなく「栄耀栄華」という熟語を知っている。そういう知識もある。
 ことばには、そのひとのすべてがあらわれるが、詩の主人公は振幅の大きい場で生きていることが、俗語と熟語(文語)によって浮き彫りになる。
 「にゃな」「にゃあ」の使い分けは中井久夫の工夫だが、この声の変化はとてもおもしろい。中井は、単に俗語を詩に取り込むだけではなく、それを「声」そのものとして再現している。「声」とは「肉体」そのものである。「にゃな」と自分自身に念を押したときの肉体のこわばった感じ、「にゃあ」と声をのばしたときの肉体の少し緊張のゆるんだ感じ--そのひとの姿まで見えるようだ。
 実際、中井は、「声」によって「肉体」の描写をし、カヴァフィする詩を補強しているのだと思う。

もしアルテミドロスのたぐいが
書簡をたずさえ群衆から歩みでて
早口で「今すぐお読みを、閣下、
閣下にかかわる重大事項で--」と言ったならば、
絶対やめろ、延期しろ、
演説も業務も。追い払え、みんな。

 後半、「にゃ」というような口語は消える。厳しい口調に変わっていくが、この口調の変化が、とてもおもしろい。
 前半の俗語の口調は主人公の過去(来歴)を感じさせるという意味でドラマだが、前半部分から後半への変化の激しさもまたドラマである。「絶対にやめろ、(略)みんな。」の倒置法も、ドラマの「急」を象徴する。
 ドラマは複数の人物で演じられるものだが、カヴァフィスはひとりの人間のなかで、「声」を変えることよってドラマを作り上げている。