「ディオニュソスの取り巻き」はダモンという石工を描いている。大理石を彫る。ディオニュソスを取り巻きを彫っている。群像には「泥酔」「酩酊」「歌」「甘さ」「楽しさ」などの名前がついている。仕事が終われば……。
三タラントン。巨額の報酬
溜まった分にこの足し前。
ゆうゆう暮らせる。マル金だ。
「マル金」について中井久夫は「一九八〇代前記の本邦俗語。「成り金」ほど非難がましくなく、「リッチ」と同じ軽みがあるが都会らしさに劣るか」と注釈で書いている。この訳語の選択がおもしろい。
ギリシャの古代に日本の俗語。その組み合わせ。
中井久夫は、詩を「こと」として翻訳しているが、そこで起きている物理的な「こと」を描くだけではなく、そこに登場する人間のこころの「こと」、こころで起きている「こと」がはっきり見えるようにことばを選んでいる。
「足し前」ということばと「マル金」ということばが、とてもよく響きあう。不足を補う金--それは、ある意味では半分あきらめていたものかもしれない。それが入ってくる。少しだが、にわかに、手持ちの金が増える。こういうときの悦びは、どうしたって俗語(口語)でなくてはならない。それも流行っている俗語でないとだめ。流行っていることばというのは、「感覚」が共有されていることばということ。共有されていることばをとおして、悦びが広がっていく。
この金の出所が「美(芸術)」と関係しているのもおもしろい。美的なものと俗の組み合わせ、そこから陶酔が生まれてくるというのはカヴァフィスのことばの運動の特徴だが、それを中井久夫は卑俗な流行語でしっかりとつなぎとめている。
政治に手をだそう。
考えるだけで胸が鳴る。
金と政治。それは古代のギリシャからの固い結びつきらしい。だれもが知っている「こと」なのだ。卑俗な関係である。そういうものに酔って「考えるだけで胸が鳴る」というこの常套句が、不思議にいきいきしている。
詩人が自分の個性で磨き上げたことばではなく、そこに流通していることばを、常套句と感じさせずに、口語の奥にある「欲望」そのものをつかみ取る形で動かす。このことばの運動がおもしろい。
またここには、間接的な政治批判がある。卑近な欲望をさらけだすことで、政治が卑近な欲望を満足させるために動いているに過ぎないという批判が。これは正面切った批判よりも生き生きとしている。カヴァフィスの姿勢があらわれている。