人間の声にはいろいろある。強い声だけではなく弱い声もある。弱い声には、繊細な声というのもある。この繊細さを整えると抒情になる。一方、弱いだけで、どうにもならない声もある。「愚痴」になってしまう。そういう弱い声、どうしようもない声もカヴァフィスは聞きとっている。「トロヤ人」。魅力的ではないが、たしかに人間の声である。
われらの努力は運に見放された者の努力。
われらの努力はトロヤ的。
ようやくあるところまで手がとどき
ちょっと力がたまって
希望がもてそうになり、大胆になろうと思うと、
かならず邪魔がはいる。
アキレスが塹壕から飛び出て目の前に突っ立つ。
蛮声にわれらはちぢみあがる。
「ようやく」「ちょっと」という何かから遅れた感じ(見劣りのする感じ)と「もてそう」という推測、「なろうと思う」という時間をかけた決意。これは英雄(神話の主人公)の声ではない。庶民の声である。思い(決意)で自分を引っぱっていく、人を動かすのではなく、動いたあとで、その思いを確かめている。ことばで状況を切り開かない--という意味では、詩ではない。詩とは、ことばで現実をかえていくものだから。
一連目が「思うと、」という中途半端な形で終わるのも弱い声の特徴をあらわしている。文章として完結できない。完結する前に、事実がことばを追い越してしまう。
そして「愚痴」が始まるのだが、おもしろいことに、そこには「かならず」があらわれる。そしてその「かならず」(必然)はよそからやってくる。自分で切り開いて「かならず……する」ではなく、「からなず……なる」。主語は「他者」である。この詩では「邪魔」がかならず入る。「かならず」は弱い声を押し退けてあらわれる。
「突っ立つ」という短い複合語がおもしろい。「立つ」だけでは打ちのめされた感じがしない。「突き立つ」の音便だが、「突き立つ」ではなく「突っ立つ」だからこそ「民衆」という感じになる。口語(音便)、その「音」がそのまま民衆(兵ならば下級兵)の「肉体」になって見えてくる。
「ちぢみあがる」も同じである。「縮む」「震える」というようなことばでは不十分。「縮む+あがる」という複合語が、ことば(声)に込めた「民衆」の気持ちをそのままあらわしている。複合語というのは勢いをつけて言わないと声にならないが、おかしなことに、恐怖というのは自分自身に勢いをつけないとことばにもならない。
中井久夫の訳は、そういう声の仕組み(肉体とことばの関係)を浮き彫りにしている。